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晩夏のスイス・チューリヒ。世界屈指の金融都市でもあるこの街の片隅に、ビルと呼ぶには高さのない、いかにもバウハウス的で無機質なデザインの建造物がある。
10段ほどの段差の少ない階段を丁度上った場所に立て看板があった。モーヴカラーの看板には視認性の高いフォントではっきりと「Migrationsamt」と書かれている。移民局だ。
世界中どこの国も役所の動線は同じだ。次々に人が入り、受付番号カードを受け取って、順番を待ち、アクリルで仕切られたカウンターの向こう側に座る職員に手続きを依頼する。職員は淡々とした表情のまま、こなれた手つきであっという間に手続きを終わらせる。用を終えて建物を去る。
呆気なくカウンターを飛び交う、薄っぺらい書類の束に載せられたものはその人の過去であり未来だ。ここは訪れる外国人にとって、その後の人生を左右する場所でもあるのだ。
水上祥は、受付番号の札を取り、待合用のラウンジチェアに腰を下ろした。10年前より、ほんの少し重くなった身体を背もたれに埋めて、少しでも緊張をほぐそうとゆっくり深呼吸をした。
申請書はある、戸籍謄本もある、住民票も、無犯罪証明書も、アポスティーユ(公的証明)もある……記載内容も不備は無い。
アパートメントを出るまでに、これでもかというほど、書類の内容を確認しているのに、それでもここで確認をしてしまう。
この不備のない申請書類一式こそ、二人の未来へのパスポートだ。
「ようやく今日が来たよ、ダーチャ。」
祥は噛み締めるように呟いて、これまでの10年を振り返った。
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