08 • Zurich • それから

4/5
56人が本棚に入れています
本棚に追加
/87ページ
ヤンはF国の長期出張を終え、今日が事実上の引っ越し日だった。大きなスーツケースをトランクから下ろし、二人の様子を呆然と眺めていた。 「俺は一人っ子だったし、F国のカリムん家はガキだらけだったから知らなかったな……。」 「ヤン?」 「ガキひとりだけで、家って、あんなに賑やかになるもんなんだな。」 祥は穏やかにダーチャに微笑んだ。 「ヴァーニャはやんちゃな子だからね。ね、」 ツァーリと呼ばれたダーチャは不満そうに祥を見ると、ヤンもちょっと悪戯っぽく笑った。 「そういや、おまえ、ツァーリになったんだよな。ツァーリって呼んだほうがいいか?」 ダーチャは二人の揶揄いに唇を尖らせた。 「今まで通りみんなからはダーチャって呼ばれたいって二人とも知ってるくせに。イジワル!」 ダーチャは膨れっ面になると祥は揶揄ってごめんね、とダーチャの頬にキスをして宥めた。 ダーチャがこの家で自分をツァーリと呼ばせているのは、ツァーリの伝統を守る立場上、ケジメを付けなくてはいけない、ニャーニャのイリーナとオルガ、そしてヴァーニャだけだった。 ちょうどそのタイミングでカリムがクスクス笑いながら祥たちに歩み寄ってゆく。 「相変わらず楽しそうだね、僕の息子たちは。」 「おかえりなさい、カリム。」 そう言って祥とダーチャはカリムのほうに足を向け代わるがわるカリムとハグをして、カリムはヤンを見た。 「ヤンはしなくていいの?」 「……俺は息子じゃない。ただの昔馴染みだ。」 この際一緒だからと、ヤンはカリムにハグされると複雑な表情を見せ中国語で一人ボヤく。 「どうしてくれるんだよ。カリム邸がこんなにも優しい場所だと、離れられなくなるだろ。」 と。 中国語も理解出来るダーチャは、クスクス笑って、祥にヤンのボヤきを日本語で耳打ちすると「可愛い!」と吹き出した。 その声でヤンと祥の目が合い、ヤンはバツの悪そうな顔で睨むと、ぶっきらぼうに「カリム、行くぞ」とスーツケースを乱暴に引いて玄関に向かって行った。
/87ページ

最初のコメントを投稿しよう!