題3話

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題3話

『偶然』     木下流里  約束もしていないのに偶然に街角で出会う。  それはとても少ない確率で、とてもうれしいことだと思う。  むかしすみちゃんは、街で偶然樹梨ちゃんと出会ったことがあるらしい。そのときすみちゃんは運命を感じたのだという。その言葉通り、すみちゃんと樹梨ちゃんは今も一緒にいる。  だけど、それは運命だったからじゃなくて、偶然をつかみ取って運命に変えたのだと思う。  偶然をただ眺めているだけでは運命になれないんだ。 ------------------------------------------  去年までは夏休みは楽しみでしかなかった。  友だちと遊んだり、すみちゃんに遊びに連れて行ってもらったり、家族旅行に行ったり……。  今年も同じように色々な予定がある。  それでも、今年の夏休みはつまらないと感じてしまうのだ。  どうしてそう感じてしまうのか、理由は考えなくてもわかる。学校がなければ、志藤先生に会うことができないからだ。  考えてみれば、夏休みや冬休みみたいな長い休みは、学校内で恋愛をしている人にとって不利だ。  もしも付き合っているならば、いや、付き合っていなくても友だちとかなら、花火とかお祭りとかお買い物とか映画とかに一緒にいくことができるだろう。それは、学校では見られない姿を見られる絶好のチャンスになると思う。  だけど片想いで話をすることすらままならない相手ならば、この長い休みは全くなにもすることができない時間になるのだ。  下手をすれば大幅に後退してしまうかもしれない。  だからワタシは、夏休みに入る前から気持ちが鬱々としていたのだけれど、夏休みに入ったらさらに気持ちが滅入ってしまった。  夏休みが少し過ぎたけれど、志藤先生に会える新学期までまだ一ヶ月近くある。もうすでに志藤先生に会えない禁断症状が出てきそうだった。  だからといって、家の中に引きこもってウジウジ考えていても何も変わらないから、今日はお母さんと一緒に街に出掛けることにした。  街に出れば、バッタリ偶然に志藤先生と出会える可能性が一パーセントくらいはあるかもしれない。  そんな低確率に期待するなんて情けない気がするけれど、家に閉じこもっていたらゼロパーセントだから、少しでも確率を上げるほうが絶対に良いはずだ。  街に出るといってもウチから電車ですぐに着く、ちょっと大きなショッピング街だ。だからこそ、志藤先生に偶然出会う確率は遠くの街よりも高い気がする…二パーセントくらいはあるだろうか。  今日、お母さんと街に出掛けることにしたのは、すみちゃんの絵の展示会が開催されているからだ。この間の日曜日から十日間くらいの日程らしい。  基本的にギャラリーの人が取り仕切ってくれているのだけど、樹梨ちゃんやキタローさんやお母さんが順番にお手伝いに行っている。今日は、お母さんがお手伝いの日だと言うからついて行くことにしたのだ。  ちなみにすみちゃんは、開催期間中はほとんど毎日顔を出しているらしい。  ワタシは別にお手伝いをすることもないけれど、たまにはすみちゃんと遊んであげないとかわいそうだし、会期中に一度は見に行きたいと思っていたからちょうど良い。  それにお客さんのフリをすれば、すみちゃんの絵が人気があるみたいに見えるはずだ。こういうのをなんて言うんだっけ?スミレ……じゃないし、百合……でもなくて……。まぁいいや。  でも、そんなお花のフリをしなくてもすみちゃんの絵は結構人気があるみたいだ。毎年展示会をしているし、何かの小説の表紙に使われたこともある。  ワタシもすみちゃんの絵が好きだから、展示会があると毎回見に行っているのだ。  だけどすみちゃんは絵描きさんではなくて本当は別の仕事をしている。 「人気があるなら絵の方を本業にして、もっとたくさん描けばいいのに」  と、すみちゃんに言ったことがある。 「絵を描くのは好きだけど、私の場合、趣味だから楽しく描けてると思うんだよね。本業にしたらいい絵が描けなくなりそう」  ワタシの言葉にすみちゃんはこう答えたけれど、ワタシにはすみちゃんの言うことがよくわからなかった。  ワタシは好きなことをずっとやれた方が楽しいと思う。  だってすみちゃんはいつも、ボサボサ頭でウーン、ウーンと唸りながらお仕事をしているのだから。だったら好きな絵を描いていた方が楽しいんじゃないかと思う。  それに何かのテレビだかコマーシャルだかで『好きなことを仕事に』と言っているのを聞いたこともある。  ワタシはまだ将来どんな仕事をしたいとか考えたことはないけれど、自分が好きだと思える仕事をしたい。  これって好きな人と付き合いたいと思うのと同じじゃないだろうか。  好きな人とは付き合いたい。  好きな人だから付き合いたくない、なんて意味がわからないと思う。  現にすみちゃんは大好きな樹梨ちゃんと付き合っていて、一緒に暮らしている。ワタシからみても、すみちゃんが樹梨ちゃんのことをすごく大好きなのがわかるのに、もしも「好きじゃないから付き合ってる」なんて言われたら「嘘つきめ!」と叫んでしまうところだ。  それなのに好きな絵を本業にしたくないのは、すみちゃんがひねくれているのだろうか。  そんなことを考えているウチに、すみちゃんの展示会が開催されているギャラリーにたどり着いた。  駅から少し離れた場所にあるけれど、道路に面した一階にあるから通りを歩いていても目に留まりやすい。そのせいか、常連の人だけじゃなくて、ふらりと立ち寄ってすみちゃんの絵を見ていく人も多いようだ。  それほど広いギャラリーではないと思うけれど、狭すぎることもないから、すみちゃんの絵をゆったり見ることができるから、そういう人にすみちゃんの絵を好きになってもらえたらいいなと思う。 「お、流里も来てくれたの? ありがとう」  ギャラリーに入ると、すみちゃんが太陽のような笑顔を浮かべて言った。ワタシの大好きなすみちゃんの笑顔だ。 「今回はこんなのがあるんだよ。一冊あげるね」  すみちゃんがそう言って差し出したのは、すみちゃんの絵の雅趣だった。大きな画集を手に取ると、ずっしりとした重みを感じる。こんなにたくさんの絵をすみちゃんが描いていたんだなと思うと、ちょっと不思議な感じがした。いつもニコニコしていてやさしいすみちゃんだけど、ちょっとすごい人みたいな感じがする。  ワタシが何も言わずに重い画集を見つめていると、すみちゃんがすぐにワタシの手から画集を取り上げた。 「?」  首を傾げてすみちゃんを見上げると 「サインを入れてあげよう」  と言ってニンマリ笑うと、表紙にサインペンでサインを書いてしまった。サービスなのだと思うけれど、特にサインを入れて欲しいと思わなかったから、どんな顔をしていいのかわからなくなった。 「えっと……前もこういう本を作ってたよね?」 「ああ、うん。あれはそのときに展示していた作品と過去の作品を少しまとめたやつだね。これは今までに描いたものがたくさん載ってるんだよ」 「へぇ、全部載ってるの?」 「全部ではないよ。でもかなり載ってる」 「ふ~ん」  ワタシは頷きながらサイン入りになって手元に返ってきた画集をペラペラとめくった。  すみちゃんはなんだかワクワクした顔でワタシを見つめている。多分、ワタシの感想を待っているのだと思う。  すみちゃんの絵は好きだけど、どの絵も見たことのある絵だから特別何も思わない。正確には「ああ、すみちゃんの絵だな」という感じだ。悩んだ末、ワタシは「えっと……、よかったね」と言ってみた。  この返事が良かったのかどうかわからないけれど、すみちゃんは嬉しそうにニッコリと笑ってくれた。  お客さんが入ってきて、すみちゃんはあいさつをしに行ったので、ワタシはバックヤードにもらった画集を置きに行ってから、展示してある絵を見ることにした。  すみちゃんの絵は小さい頃から見ている。少しずつ作風が変わっているところもあるけれど、やさしい雰囲気は変わらない。あと、絵の中にいる幼い人魚の姿も変わっていない。  幼い頃は、絵の中の人魚を探すのが好きだった。とても目立つところに描かれていることもあれば、よく探さなければ見つからないところに隠れていることもある。絵の善し悪しはわからなかったけれど、それがとても楽しかったのだ。  すみちゃんに「どうして人魚を描いているの?」と聞いたこともある。そのときすみちゃんは「ナイショ」と言うだけで教えてくれなかった。そして、人魚を描く理由は今も教えてもらえない。  会場には見たことのある絵もはじめて見る絵も飾ってあった。やっぱりどの絵にも人魚が描かれている。  一枚ずつじっくりと時間をかけて見たけれど、それほど広くない会場だから、あっという間にすべての絵を見終えてしまった。  お母さんはなんだか忙しそうだし、すみちゃんはお客さんとはなしをしている。まだお昼にもなっていないのにやることがなくなってしまった。 「お母さん、ちょっとブラブラしてきていい?」  お母さんの手が少し空いた隙を見て話し掛けてみた。 「そうね。もう少ししたらお昼だし、ついでにご飯も食べてきなさい」  お母さんは特に何か手伝えとも言わず、あっさりと認めてくれた。そして、お昼ごはん代には少し多い二千円を渡してくれた。  ワタシはそれをありがたく受け取ってギャラリーを出る。  だけど、特に目的があるわけではなかった。どこに行こうかな……と辺りにあるお店を思い浮かべた。  駅前には大きなファストファッションのお店がある。お母さんからもらった二千円と自分のお小遣いを足せば好きな服を買うことができるだろうけど、全部のお金を使い切るのは嫌だから、せいぜいTシャツくらいしか買えないだろう。  友だちと一緒ならば、見て回るだけでも楽しいし時間も潰せるけれど、一人で長い時間服を見て歩くほどファッションに興味があるわけではない。  その近くに大きな本屋さんもあるけれど、ワタシが読みたい漫画はビニールが掛かっているから立ち読みをして時間を潰すこともできないだろう。  そうして考えると、雑貨屋さんが一番手頃かもしれない。それよりも駅ビルの全フロアを探検するほうが楽しいだろうか。  お母さんからもらった二千円があれば、バーガーを食べてからカフェでジュースを飲むこともできる。  時間はたっぷりあるから、自分のお小遣いを減らさずに遊べる方法を考えよう。それには一番店が集まっている駅前に移動するのが良さそうだ。  ワタシはそう考えて駅前へと足を運んだ。  駅の近くはたくさんの人であふれかえっていた。  そういえばすみちゃんは、この駅の近くで付き合う前の樹梨ちゃんと偶然に出会ったらしい。しかも二回……。もしかしたらこの場祖は、好きな人と偶然に出会えるスポットなのかもしれない。  そんな確率はすごく低いはずだから、期待しても無駄だと思うけれど、ワタシは試しに駅前に立って行き交う人を眺めて見ることにした。  待ち合わせをしている人もいるから、この場所に立っていても不自然ではない。不自然ではないのだけれど、真夏の太陽が容赦なく照りつけてめちゃくちゃ熱い。日陰に入っているけれど、電子レンジの中に入れられている気分だ。  こんな場所で偶然を待つなんて無理だ。と、思いつつ、あと少しだけ……と繰り返していたら、いつの間にか十五分以上過ぎていた。  本気で暑さに耐えられない感じになってきたので、そろそろ駅ビルの中に非難しよう。そう思ったときよく知った顔が視界に入った。  残念ながらワタシが求めている運命の出会いではない。 「流里、こんなところで何やってるの?」 「暇つぶし~」 「あぁ、そっか。遊べなくてゴメンね」  すみちゃんは申し訳なさそうな顔をして頭をかいた。そもそもすみちゃんと遊ぶためにきたわけじゃないから、すみちゃんが謝ることなんてないのに。 「すみちゃんこそ、ギャラリーにいなくていいの?」 「ちょっと本業の方でトラブルがあったから、ちょっと顔出してくる」 「大変だね」  よくわからないけれど、とりあえず大変そうだからそう言ってみた。 「うん。ありがとう。ここは暑いから涼しいところに移動しな。あと水分もちゃんと摂らなきゃだめだよ」  すみちゃんは過保護な親のように、ワタシの頭に手を置いて言う。 「はーい」  ワタシが返事をすると、満足そうに何度か頷くと、「そうだ、これ」と言って財布からお札を一枚渡した。遠慮なくそれを受け取ると、なんと五千円札だった。一気にお金持ちになってしまった。 「みっちゃんには内緒だよ。それで飲み物を買ってちゃんと飲むこと。いいね」 「うん。わかった」  飲み物を買うのに五千円も必要ないけれど、きっと遊べないことのお詫び込みなのだろう。 「今度、ウチに遊びにおいで。それじゃ、私は行くね」  そうしてすみちゃんは足早に駅の中に消えていった。  運命の出会いではなかったけれど、五千円もらえたから、暑い中立ち続けていた甲斐はあったと思う。  ワタシは、運命の出会いを諦めて涼しさを求めることにした。  駅ビルに入ると涼しい風に身体が包まれる。涼しいけれど、喉がカラカラだったから、フロアの端にあるジューススタンドでオレンジジュースを買った。  普段ならば缶ジュースで我慢するところだけど、今はお金持ちだから贅沢に六百円のフレッシュジュースが飲めるのだ。  自分が思っていた以上に喉が渇いていたのか、ジュースは一気になくなってしまった。せっかく高級なジュースなのだから、もう少し味わって飲みたかったけれど、喉の渇きには抗えない。  ワタシは、カップの中の氷をひとつ口の中に放り放り込むと、カップをすてて移動を開始した。  まずはエレベーターでビルの最上階に向かう。  そこから一回ずつ階を下って、駅ビル制覇をする計画だ。この駅ビルには何度も来たことはあるけれど、目的の店にすぐに向かってしまうから、他にどんな店が入っているのかよく知らない。  普段は行かない紳士服フロアなんて、ワタシが歩いていて怒られないだろうか? と思ってしまうくらい場違いに感じたけれど、中央付近にある休憩スペースがゴルフのグリーンみたいになっていたのが面白かった。  普段行かないフロアにはなんだか色々発見があって面白い。  そうして駅ビル探検をしている間も、運命の出会いを期待して辺りを見回していたけれど、やっぱり運命の出会いとはそう簡単には訪れないようだ。  一階まで戻って時計を見るとすでに一時をまわっていた。  お腹も空いてきたからお昼ごはんを食べたいけれど、一人でお店に入るのは少し勇気がいる。  バーガー屋くらいなら入れるけれど、やっぱりちょっと寂しいから、一度ギャラリーに戻ってお母さんが昼休憩に入らないか聞いてみることにしよう。  そうしてワタシは、また灼熱の街に戻って、汗を流しながらギャラリーに戻った。  そして、ワタシは青い鳥の童話を思い出した。なぜか嫌な予感まで付いてくる。 「し、志藤、先生?」  ワタシの青い鳥は、なんとギャラリーの前にいたのだ。 「え? 木下さん。こんなところで会うなんて奇遇ね。一人なの?」  志藤先生はワタシの姿を見ると目を丸くして言った。  学校で見る志藤先生と少し雰囲気がちがう。まぁ、学校ではジャージかTシャツか、レアなところで水着姿しか見たことがないから、私服というだけで超レアなのだけれど、イメージしていた私服と随分違った。  長い髪は縛らずに下ろしていて、ふんわりとしたスカートにはさりげなく小花がちりばめられているし、全体的にフェミニンな雰囲気だった。  私服というよりは気合いを入れたデート着のような感じもする。  学校での志藤先生の姿とのギャップにドキドキしてしまうところなんだけど、ワタシは他に気になることがあってそれどころではなかった。  それは、志藤先生が胸元に大事そうに抱えている四角い物体の存在だ。 「志藤先生……。もしかしてそれ、脇山すみ枝の画集ですか?」 「え? 知ってるの?」  当たってしまったようだ。ワタシの運命の人は、ワタシがいない間にギャラリーに来てすみちゃんの絵を眺めた上に、結構なお値段の画集まで買ってたようだ。 「ま、まぁ。知ってます……けど……」  なんだかとても悔しい気持ちが胸の奥から湧き上がる。 「木下さんも展示会を見に来たの? もしかして、脇山さんのファンなの?」  志藤先生は同志を見つけた喜びなのか、目をキラキラとさせていつもよりもテンションが上がっているようだった。  その姿に胸の奥に湧いた悔しさが苛立ちに変わる。  樹梨ちゃんは「すみちゃんはモテるから……」なんて惚気みたいなぼやきをしているけれど、そんなすみちゃんの毒牙が志藤先生にまでおよんでいたるなんて思ってもみなかった。  単に絵を好きなだけですみちゃんを好きなわけではないはずだ。と、ワタシは必死にと苛立ちを抑える。 「志藤先生は絵が好きだったんですね」 「絵画に詳しいわけじゃないんだけど、脇山先生の絵はすごくステキなんだよ。って、木下さんも知ってるよね。何度か展示会に来てるんだけど、脇山先生にも少し会ったことがあるの。絵だけじゃなくて、脇山先生もすごくステキな方なんだよ」  ほんのり頬を赤く染めているのは夏の暑さの性ではないと思う。  一方のワタシは血の気が引くような、頭に血が上るような感じがしていた。  すみちゃんのことを大好きだったけれど、今、この瞬間きらいになった。樹梨ちゃんがいるんだから、他の人に好かれるとか無しにしてほしい。 「あー、でも今、脇山先生はギャラリーにいらっしゃらないわよ。せっかく来たんだから会いたかったでしょう? 私も画集にサインをいただきたかったんだけど……」  そうして志藤先生は両手で抱えている画集をギュッと抱きしめた。  かなり失恋した気分だけれど、これはチャンスなのかもしれない。  志藤先生がいくらすみちゃんのことを好きでも、すみちゃんには樹梨ちゃんがいる。  志藤先生がすみちゃんのことを好きならば、すみちゃんを利用してやろう。 「先生、お昼ごはんって食べましたか?」  ワタシは聞く。 「え? いえ、まだ食べてないけれど……」  突然話が変わったせいで、志藤先生はキョトンとした顔で首を傾げながら答えた。すごくかわいい。 「ワタシ、ちょうどお昼ごはんを食べようと思ってたんです。だけど一人でお店に入れなくて……良かったら一緒にお昼を食べてくれませんか?」 「え? うん……それは良いけど……」 「お礼に叔母の話を教えてあげますよ」 「へ?」  志藤先生は益々戸惑ったように首を傾げた。 「脇山すみ枝はワタシの叔母なんです」 「えぇ!」  今度はこれ以上開かないとうくらい目を見開いた。こんな表情の志藤先生を見るのもはじめてだ。 「じゃぁ、行きましょう!」  ワタシはそう言って足を進めた。  志藤先生は若干パニックになっている様子だけど、「うん」と頷いてワタシの横を歩く。相変わらず抱きしめたままの画集に嫉妬してしまいそうだけど、勝負はまだはじまったばかりだ。  駅の近くのお店は混んでいそうだったから、駅とは反対方向にあるファミレスに向かった。  それでも店内は結構混んでいたけれど、ほんの少し待つだけで席に案内してもらえたから それでも混んでいたのだけれど、少し待つだけで席に案内してもらうことができた。  案内された店の奥のテーブルに志藤先生と向かい合って座る。これは初デートとカウントしてもいいのだろうか。そう考えたら急にドキドキしてきた。  それに、テーブルについてメニュー表を見はじめたから、ずっと抱きしめていた画集をやっと手から離してくれた。  すみちゃんには申し訳ないけれど、画集が視界に入る度に嫌な気分になっていたのだ。ようやくすみちゃんに邪魔されず、志藤先生と二人きりになれた。 「なんでも好きなもの頼んでいいからね」  志藤先生が言う。もしかしたらおごってくれるつもりなのかもしれない。だけどワタシから誘っておごってもらうほど図々しくはない。 「お母さんからお昼ごはん代をもらっているから大丈夫です」 「んー……。でも今日は先生が出すよ。特別だから学校のみんなには内緒だよ」  みんなには内緒なんて、ちょっとくすぐったいみたいなうれしいような……とりあえずテンションがピュンと上がる。  すみちゃんのことを恨みたいような気持ちだったけれど、これは感謝するべきなのだろうか。よくわからないから、とりえあずそれは一旦保留にしてメニューを選ぶことにした。  チーズハンバーグが好きなんだけど、子どもっぽいと思われてしまうだろうか。でも大人っぽいメニューってなんだろう。とりあえず、食べにくくてこぼしてしまったり、口の周りをベタベタにしてしまいそうなものは却下だ。  大人っぽくてかわいく食べられるものって何だろう。考えている間に何を注文したらいいのかわからなくなってきた。  悩んだ挙げ句、志藤先生と同じものを注文することにした。 「飲み物を取ってくるね。木下さんは何を飲む?」  ワタシが行きますと言おうとする前に志藤先生はパッと立ち上がってしまった。さすがは体育教師といったフットワークの軽さだ。 「えっと……じゃぁ、オレンジジュースで」 「うん。わかった」  そうして志藤先生は軽くステップを踏むようにしてフリードリンクコーナーに行き、その後ろ姿を眺めながらワタシは「オレンジジュースは子どもっぽくないよね?」なんて考えていた。  戻ってきた志藤先生は、私の前にオレンジジュースのグラスを置き、自分の手元にはアップルジュースを置いた。志藤先生がアップルジュースを選んだことに、なぜかワタシはちょっぴりホッとした。  こういうときにすみちゃんは大体コーヒーを飲む。樹梨ちゃんは紅茶が多い。だから、コーヒーとか紅茶の方が大人っぽいんじゃないかと思ったけれど、別に気にしなくてもいいのかもしれない。  志藤先生が入れてきてくれたオレンジジュースを志藤先生と向かい合って飲むと、いつもよりずっと美味しく感じられる。と、言いたいところだけど、駅ビルで高級フレッシュオレンジジュースを飲んだばかりだから、値段の違いでこんなに味も違うものなんだ、なんて思ってしまった。オレンジジュースではなくてサイダーとかにすればよかった。そうすればもっと志藤先生が入れてくれたジュースの味を堪能できたかもしれないのに。でも、炭酸はちょっと苦手だからやっぱり味を楽しむことなんてできなかったかもしれない。  ジュースを飲んで少し落ち着いた頃に、志藤先生が少しソワソワした様子でワタシに話し掛けた。 「えっと……、木下さんは脇山先生の姪御さん、なの?」  志藤先生がなんとなくご機嫌な感じだったのは、ワタシとのデートが嬉しかったからではなくて、すみちゃんの話を聞きたかったからなんだ、と突きつけられて気分がドーンと下がる。わかっていたし、それを利用したのだけれど、やっぱり気分は良くない。  恋のライバルは山中小学校の鍋島先生だと思っていたけれど、どうやら本当のライバルはすみちゃんだったようだ。  強敵だと思うけれど、すみちゃんには樹梨ちゃんガードがあるからきっと大丈夫だと思う。 「はい。すみちゃんはお母さんの妹です」  ワタシは素直に答える。 「へぇ、そうなのね。脇山先生と木下さんはあまり似ていないのかな?」  ワタシは笑顔を浮かべようと思ったけれど、うまく笑えていないのがわかった。もしもワタシがすみちゃんに似ていたら、志藤先生はワタシのことを意識してくれただろうか。  そもそもお母さんとすみちゃんは似ていない。それなのにお母さん似のお姉ちゃんは少しすみちゃんと似ていた。なんだかとてもズルいと思う。そのせいか、お姉ちゃんは高校で結構モテモテらしい。本当かどうかは知らないけれど「ありえないよね!」とは思えない。  父親似でお母さんにもすみちゃんにも似ていないことがずっと悔しかったけれど、その気持ちがさらに強くなった。どうしてお父さんはすみちゃんに似ていなかったのだろう。 「ワタシ……お父さん似なんです」  言葉にするとさらに悔しさが募る。  そのとき注文していた『季節のレディースセット』が運ばれてきた。サラダやパスタがのったきれいな彩りの皿がテーブルに並べられる。 「食べましょうか」  志藤先生はフォークをワタシに渡しながら言う。 「はい。いただきます」  そうしてパスタを少し口に運んだけれど、あまり美味しく感じられなかった。  少し息をついてからワタシは先生に尋ねる。 「先生は以前からすみちゃんのこと……すみちゃんの絵を知っているんでずか?」  志藤先生は料理を口に運ぶ手を止めて「うん」と頷いた。 「脇山先生の絵をはじめて見たのは高校生の頃だから……六年くらい前ね」 「そんなに前から……」  六年前といえば、ワタシがまだ小学二年生だ。年齢の差が大きく立ちはだかっているように感じる。 「なんとなく入ったギャラリーでやっていたのが脇山先生の展示会だったの。そのときに……なんていうのかな、一目惚れみたいな感じかな。すごく好きになっちゃったの」  絵の話をしているとわかっていても「一目惚れ」とか「好きになっちゃった」という言葉はワタシを動揺させるには十分だった。  志藤先生は高校生のときにすみちゃんの絵と運命的な出会いをしたのだ。  それはすみちゃんのことではなく、すみちゃんの絵のことなのだろうけれど、志藤先生の表情は恋をする乙女のようだ。 「高校生の頃から絵が好きなんですか?」 「嫌いではないけど……絵のことは全然わからないし、ギャラリーに入ったのもあのときがはじめてだったのよ」 「それならどうしてギャラリーに行ったんですか?」  ワタシが聞くと、志藤先生は「うーん」と少し考える仕草をしてから「まぁ、いいか」と呟いてから言葉を続けた。 「私、ずっと陸上をやっていたの。かなり真剣にね」 「陸上って、百メートル走りとかマラソンとか?」 「私は高跳びの選手だったんだよ。これでもそれなりに注目の選手だったんだから」 「へぇ! すごいですね! あれ、でも……マネージャーって……」  ワタシの突き指にテーピングをしてくれたとき、志藤先生はマネージャーをしていたと言っていた。 「ちょっと大きな怪我をしちゃったの。ほら、膝の傷、木下さんも見たでしょう?」  ワタシは水泳の授業で見た志藤先生の膝の傷を思い出した。 「もう痛くないって……」 「ええ。もう痛くないし普通に運動はできるのよ。でも選手としては無理だったの……。違うな……。傷そのものよりも、恐怖心の方が重症だったのね。それで選手を辞めてマネージャーになったのよ」  すでに過去の話だからなのか、志藤先生に悲壮感はない。だけどワタシはなんだか胸が苦しくなった。 「悔しくなかったんですか?」 「悔しかったよ。なかなか諦められなかったし、でも戻ることもできなくて、もうどうしたらいいのかわからなくて、ちょっと荒れちゃったこともあったのよ」 「不良になったんですか?」  志藤先生が不良だったなんて想像できない。 「不良という程では……。まぁ、ちょっと部活や学校をサボったことはあったかな」  少し照れたように言うと、志藤先生は軽くウインクをして「内緒ね」と言った。その仕草に思わず胸がキュンとする。 「そんなときに脇山先生の絵を見たのよ。街をフラフラしてたときに、気まぐれにギャラリーに入ってみたの。それまで陸上ばっかりやっていたから、正反対のものに触れたいと思ったのかもしれないね」  先生は遠くを見つめるようにして目を細めた。 「脇山先生の絵はやさしい雰囲気だなと思ったんだけど、最初はあまりピンと来なかったのよ。だけど会場の中に一枚だけ赤い絵があったの」 「赤い絵?」 「脇山先生の絵は海や山や空を題材にしていることが多いから、青とか緑の作品が多いでしょう? 最近はそうでもないけれど、私がはじめて見た展示会ではね、青とか緑の絵の中に一枚だけ赤い絵があったの。それがとても印象的でね。よくわからないけれど、すごく惹かれたのよ。やさしい雰囲気なのは他の絵と同じなんだけど、力強さとかエネルギーを感じられると言うか……。その絵を見ていたら、もう少しがんばってみようっていう気持ちになれたのよね」  ワタシと向き合って話しているけれど、今の志藤先生の目にはワタシの姿ではなく、すみちゃんの描いた絵が見ているのだろう。 「でもあのとき以来、一度もあの赤い絵を見てないんだよね。売れちゃったのかな? ステキな絵だったからね……。高校生の頃は飾られている絵を買えるなんて知らなかったから。まぁ、知っていたとしても買えなかったけどね。今回出た画集に入っているかなって思ったんだけど、入ってないみたいね。もう一度見たかったんだけど……」  志藤先生は残念そうに眉尻を下げて、横に置いた画集をチラリと見た。  先生が見たいと言っている、先生が運命の出会いをした赤い絵をワタシも知っている。  すみちゃんの絵の中では珍しい赤を基調にした絵はワタシの印象にも強く残っている。  そして、その赤い絵が今どこにあるのかも知っている。  話をしている間に、テーブルに並んでいた料理はデザートまできれいになくなっている。  このままファミレスを出れば、夏休みが終わるまで志藤先生と会うチャンスはないかもしれない。  志藤先生がすみちゃんとすみちゃんの絵が好きなならば、ワタシはそれを利用させてもらおう。  ズルいと言われるかもしれないけれど、今のワタシにはこの方法しか思い付かない。 「先生、次の日曜日は空いてますか?」 「え?」 「ワタシ、その赤い絵のある場所を知ってます。よかったら一緒に見に行きませんか?」
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