第8話

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第8話

『無題』    木下流里  子どもはいいね、とか、学生はいいね、なんて言われることもあるけど、ハッキリ言って中学生は忙しい。  毎日の勉強に、定期テスト、体育祭が終わったらすぐに文化祭。  本当にいろんなことがあって忙しい。  あれこれ思い悩む暇なんてないくらい忙しいんだ。 ------------------------------------------  金曜日になって、ワタシは久しぶりに登校した。  志藤先生とデートをした翌日の火曜日から木曜日まで高熱で寝込んでしまったのだ。  お母さんは「どうせなら金曜も休んで月曜から行けばいいじゃない」なんて気楽に言っていた。  それは魅力的な提案だけど、本当にそうしたら月曜日にも学校に行きたくなくなるような気がしたのだ。  だから体調が万全になったとは言えないけれど登校することにした。  高熱の原因は疲労の蓄積というヤツらしい。  運動部ではなく、あまり運動をしてこなかったのに、秘密特訓で急激に疲労を溜めていた。その上、体育祭ではあの大転倒だ。さらに、その翌日、全身筋肉痛を隠して出掛けたせいで、体が限界に達したようだ。  火曜日の朝、いまだバキバキの体と高熱でベッドから起き上がれずにいたら、お母さんが呆れた顔をしていた。遊びに行ってダウンしたのだからそんな顔をされても仕方ない。  仕事を休めないお母さんに代わって、すみちゃんがやってきて病院に連れて行ってくれた。  お母さんは「こういうとき、フリーターって便利よねえ」と言い、すみちゃんは「フリーターじゃなくてフリーランスだよ」と言う。  ワタシが小さい頃から何度も繰り返しているネタだ。  こうしたいつものやりとりを聞くと、なんだか妙に安心する。  お母さんやお父さんが仕事のときには、いつもこうしてすみちゃんが来てくれた。ずっと当たり前のことだと思っていたけれど、ありがたいことだったんだなと、このときにはじめて気付いた。  すみちゃんと一緒にかかりつけの病院に行ったら、「疲労が蓄積したみたいですね。しっかりと寝て身体を休めてあげてね」と言われた。  発熱は睡眠不足のせいもあるのかもしれない。  体育祭の日の夜、身体は疲れていたけれど志藤先生とのデートが楽しみ過ぎてあまり眠れなかった。  そして志藤先生とデートをした日の夜は、目を閉じると志藤先生の顔が浮かんできて、全く眠れなかった。  水族館からの帰り道、別れ際にワタシは「志藤先生のことが好きです」と告げた。  先生は驚いた顔をした後で「からかってる?」と言って笑みを浮かべた。「一生懸命にやっている人を笑ってはいけない」と言った先生が、ワタシの一世一代の告白に笑みを浮かべたことがショックだった。  だけどワタシはくじけそうな心を奮い立たせてて志藤先生を見つめた。 「からかっていません。本気です。本当に志藤先生が好きです」  もう一度、心を込めて伝えた。  すると志藤先生の顔から笑みが消えて、今にも降り出しそうな空と同じくらいの重苦しさをまとった。 「えっと……ありがとう。気持ちはうれしいよ。だけど中学生くらいに年上の人に憧れることってよくあることだから、きっと勘違いをしているんだよ」  そして志藤先生はやさしい笑みを浮かべる。それが無理矢理作った笑みだということはワタシにもわかった。  そんな作り笑顔で志藤先生は言ったのだ。 「木下さんには、私なんかよりずっといい人がいるよ」  やさしい笑顔と言葉で、志藤先生はワタシの思いを決定的に否定した。ワタシと先生は同じ線上にいない。スタート地点に立つことすら許されなかった。 「そうですか。そうですよね」  ワタシが笑顔を作った。すると志藤先生の顔がホッとしたように緩む。だからワタシはもっとはっきりと笑顔を作って言った。 「変なこと言ってすみません。水族館、楽しかったです。あと、ストラップもありがとうございました」  そうして頭を下げると、志藤先生に背を向けて家に向かって走った。  もっと食い下がることも、泣きわめくこともできたかもしれない。だけどワタシにだって意地があった。プライドかもしれない。だから笑顔を作った。  一歩地面を蹴る度に、体中のあちこちが痛いと悲鳴を上げていたけれど、一番痛かったのは心だった。  病院で処方された薬を薬局で受け取り、帰りにスポーツドリンクや栄養補給のゼリーを買った。  食欲がなくて昨夜から何も食べていない。お腹は全く空かないけれど、すみちゃんが心配をするからゼリーを少しだけ胃袋に流し込んだ。そして処方してもらった解熱剤と鎮痛剤を飲んでベッドに横になる。  すみちゃんはベッドの脇に座って心配そうな顔でワタシを覗き込んだ。 「何かほしいものある?」 「今はない」 「私はリビングにいるから、用事があったら電話してね」  そう言ってサイドテーブルの上にワタシのスマホを置いてくれた。  部屋を出ようと立ち上がったすみちゃんの服の裾を引っ張る。 「ん? どうした?」 「すみちゃんは樹梨ちゃんに告白するとき、断られたらどうしようとかって思わなかったの?」  すみちゃんは少しだけ首を傾げると顔をしかめた。言いたくないことなのかもしれない。  すみちゃんと樹梨ちゃんは、見ているだけでもイラッとするくらい仲が良い。だけど最初からそうだったわけじゃないはずだ。告白をするときは怖かったり不安だったりしたと思う。そんな話を聞いてみたかったのだけど、無理矢理聞き出そうとは思わない。 「ごめん、言いたくないなら別にいいよ」  夏休みにも二人の想い出に土足で踏み込むような真似をしてしまった。姪っ子だからって、どんなことでも許されるわけじゃない。すみちゃんと樹梨ちゃんは許してくれたけれど、家族であっても踏み込まれたくないことはある。 「あ、いや、そうじゃなくてね……告白してくれたの、樹梨ちゃんなんだよね」 「え?」  なんとなく、すみちゃんから告白をしたんだと思っていた。すみちゃんの方が年上だし、樹梨ちゃんのことを大好き過ぎるくらい大好きだからだ。  なんだか期待を裏切られた気持ちになって、思わず冷たい視線を送ってしまう。  すみちゃんは体を小さくしたが、すぐに何かを思い出したように顔を上げた。 「でも、プロポーズしたのは私だよ」  その顔はすごく自慢気だ。 「それって、もう樹梨ちゃんと付き合ってたんだよね?」 「うん」 「絶対断られるなんて思ってなかったよね?」 「う、うん」  どんなにかっこいいプロポーズだって、どんなにロマンチックなプロポーズだって、断られるかもしれないと覚悟した告白より困難だとは思えない。 「もう寝る」  ワタシはそう言って布団をかぶった。  八つ当たりなのは分かっている。だけど、大好きな人から告白されて、大好きな人と一緒にいられるすみちゃんに腹が立つ。それがどれだけ幸せなことなのか分かっているんだろうか。  すみちゃんは、少しの間ワタシの様子を見ていたみたいだけど、そのまま何も言わずに部屋を出て行った。  少し経って、すみちゃんに申し訳ないことをしてしまったなと思った。  すみちゃんと樹梨ちゃんが付き合いはじめたのは、ワタシが小学二年の頃だ。すみちゃんは三十歳を過ぎている。樹梨ちゃんと出会う前には、フラれたこともあるだろうし、辛い恋をしたことがあるかもしれない。人を好きになっても、すべてがハッピーエンドになるわけじゃない。  ワタシは志藤先生を好きになったけど想いは報われなかった。だけどこの先、すみちゃんと樹梨ちゃんのように、お互いに想い合える相手に出合えるかもしれない。  先生の言った通り、志藤先生よりもずっといい人がいるかもしれない。  目を閉じると水族館で見た志藤先生の笑顔が目の前にあるように浮かんでくる。  目をキラキラさせてペンギンや魚たちを見ていた志藤先生がワタシに笑いかけてくれる。だけどその顔は、すぐに戸惑ったような、困ったような表情に変わる。  ワタシは目を開けた。少し眠っていたようだけど、時計を見るとすみちゃんが出て行ってから三十分も経っていなかった。  喉が渇いたので飲み物を探したが近くに置いていなかった。こういうところがすみちゃんだな、と思いつつ、電話をしようとスマホを手に取る。だが、無意識に開いてしまったのはフォトアルバムだった。  ペンギンたちの行進に交じって写る志藤先生の横顔があった。  涙が落ちる。  この涙は体が痛いせいだ。頭が痛いのも、胸が痛いのも熱のせいだ。  ワタシはメッセージアプリを開いた。  少し前に志藤先生から届いた、体調を心配するメッセージへの返事を打つ。 『ちょっと疲れが出ちゃったみたいです。約束してたペンギンの写真、送りますね』  学校を休んだのは先生のせいじゃないと伝わるように、いつも通りのワタシだと思ってもらえるように、笑顔の絵文字も付けて送信した。  そしてスマホを置くと再び布団に潜り込む。  ようやく涙が止まった頃、お昼を過ぎていたみたいで、すみちゃんがごはんを食べられるかと聞きに来た。  泣き腫らした顔を見られたくなくて、布団を被ったまま「いらない」と答える。するとすみちゃんは栄養補給ゼリーと飲み物、水と薬を持ってきてサイドテーブルの上に置いてくれた。  すみちゃんが部屋から出て行ってからスポーツドリンクを飲むと、いつも以上においしく感じた。栄養補給用ゼリーも流し込み、薬を飲むと、ワタシは再び布団に潜り込む。  そして何度か浅い眠りを繰り返しているうちに、いつの間にか夕方になっていた。  仕事を早く切り上げたと言って、樹梨ちゃんがお見舞いに来てくれた。すみちゃんはワタシの世話を樹梨ちゃんに任せて打ち合わせに出掛けたらしい。  なんだかみんなに迷惑を掛けてしまっているようで申し訳なくなった。  それを伝えると、樹梨ちゃんは 「体調が悪いときくらい思いっきり甘えればいいのよ。私も、すみちゃんに普段できないことをいっぱいしてもらうわよ」  と言ってケラケラと笑った。  樹梨ちゃんが体調を崩したら、きっとすみちゃんは慌ててあれもこれもやってくれるのだろう。それを想像したら笑いがこみ上げてきた。  樹梨ちゃんと一緒にちょっと笑ったら、なんだか気持ちが軽くなってきた。  ワタシは、すみちゃんで空振りをした質問を樹梨ちゃんにも投げてみた。  すみちゃんが樹梨ちゃんのことを大好きなのは明らかだから、告白といっても不安なんてなかったのかもしれない。そう想っていたけれど、樹梨ちゃんは「確かに不安はあったわよ」と言った。 「そうなの?」 「みち枝さんにけしかけられて告白しちゃったんだけど、ダメ元って思ってたし。あの頃のすみちゃんって、つかみどころがなくて、私のことをどう思っているかなんて全然わからなかったんだよ」  その言葉はとても意外だったからちょっとびくりした。  すみちゃんのことだから、付き合い出す前から尻尾をブンブン振る仔犬のようにわかりやすい愛情表現をしていたのかと思っていた。 「もしも、断られてたらどうしたの?」 「んー、すみちゃんに? 想像ができないけど……多分、一晩泣いて、しょうがないって諦めたかな?」 「そんなに簡単に諦められるの?」 「簡単じゃないとは思うけど、すみちゃんだったらちゃんとフってくれると思うから」  樹梨ちゃんの言っている意味がよく分からなかった。 「フってくれる? フラれるのが良いの?」 「実はね、まだ学生の頃に友だちを好きになったことがあるの。告白をしたんだけど、気付かないフリをされちゃったんだよね。それが私の想い自体を無かったことにされたように感じてね。その子のことが大好きだったから、フラれたことよりも、ちゃんと向き合ってもらえなかったことが悲しかったのよ」  樹梨ちゃんは懐かしむようにどこか遠くを見つめるようにして言った。  あまり想像ができないけど、樹梨ちゃんでもフラれることがあったんだ。当然のことかもしれないけど、ちょっと不思議に感じる。 「そのとき樹梨ちゃんはどうしたの?」  すると樹梨ちゃんが気まずそうな顔をして頭を掻くと、 「えーっと、なんというか、その子のことをなかなか諦めきれずに、手あたり次第に付き合えそうな子と付き合ったかな?」  と言って苦笑いを浮かべた。 「樹梨ちゃんがそんなことしたの?」 「まあ、私も若かったからねえ」  すみちゃんのことを大好きで、とてもやさしくて、ワタシにちょっと塩対応な樹梨ちゃんしか知らないから、樹梨ちゃんの言葉はとても信じられない。  だけど樹梨ちゃんのおかげで少しわかった。心の中のモヤモヤが消えないのは、フラれて辛いだけじゃなくて、ちゃんとフラれなかったからかもしれない。  あのとき志藤先生は、先生自身の気持ちを教えてくれなかった。もしも「あなたのことは好きじゃない」と言われたら、やっぱり心は苦しいけれど、今とは少し違う気持ちになっていたかもしれない。  志藤先生に拒絶された今でも、ワタシはやっぱり志藤先生が好きだ。先生は勘違いだと言ったけれど、ワタシはこの想いが勘違いじゃないと分かっている。  ワタシが黙り込むと、樹梨ちゃんは「ところで」と言ってワタシの顔を覗き込んだ。 「流里ちゃんが熱を出しちゃったのは、志藤先生と何かあったから?」  ワタシは言葉に詰まる。もしかしたら、鍋島先生からデートのことを聞いたのかもしれない。 「別に何もないよ。楽しかったし……体育祭の疲れが出ただけだよ」  志藤先生とのことをはっきりと言葉にしたくない。もしも、それを伝えて弱音を吐いても、愚痴を言っても、恨み言を言ったとしても、樹梨ちゃんは笑ったりしないと分かっている。だけど、どうしても言葉にはしたくなかった。 「そうなの? 目が腫れてるし、クマもできてるわよ?」  そう言うと樹梨ちゃんは、ワタシの頬に触れてから目元をそっと指でなぞった。  熱で火照った頬に、樹梨ちゃんの冷たい手が心地いい。 「これはファッションだよ」 「奇抜なファッションね」  樹梨ちゃんは小さく笑ってそう言っただけで、それ以上追求しようとしなかった。  樹梨ちゃんやすみちゃんが側にいてくれて本当によかったと思える。 「ねえ、樹梨ちゃん。もしもだけど、もしも教え子に告白されたら、どうする?」 「断るわね」  樹梨ちゃんは考える間もなく即答した。 「それは、相手が子どもだから? 年上に憧れるなんて、ただの勘違いだから?」 「まさか。私にはすみちゃんがいるからよ」  思わず納得してしまった。聞くまでもない答えだったのだけれど、迷うことなくそう答える樹梨ちゃんはステキだと思う。 「樹梨ちゃんのことを好きになればよかったかな」  ポツリと言うと、樹梨ちゃんは笑顔を浮かべてハッキリと言った。 「ごめんなさい、私には好きな人がいるから」  ワタシは思わず吹き出す。今夜は少し眠れそうな気がした。  水曜日には体が随分楽になった。それまでよりも眠れたからかもしれない。まだ熱はあったけれど回復している感じはあった。  昨日と同じようにお母さんは仕事に行って、すみちゃんが家に来てくれた。食欲も出てきたから、すみちゃんが作ったおかゆをペロリと平らげたら、すみちゃんは涙目になって喜んでいた。  そんな感じでまったりと過ごしていたら、夕方になってなぜか鍋島先生がお見舞いにやってきた。 「三鷹先生に家を聞いちゃった」  と言ってウインクをしながらペロッと舌を出す。 「そういう顔が許されるのは十代までだよ」  ちょっと元気になったから鍋島先生に毒舌を吐くことだってできる。そして鍋島先生は、ワタシの毒舌を聞いてうれしそうに笑った。やっぱりこの先生は変人だ。 「それで、何しに来たんですか?」 「お見舞いに決まってるでしょう? ほら、私と流里さんのお友だちだから」 「友だちになった記憶はないんだけど」 「うそ、マブダチでしょう?」 「マブ……どういう意味?」  すると突然鍋島先生が慌てだした。 「私だって、オンタイムの言葉じゃないんだからね」  なるほど。いわゆる死語というやつみたいだ。 「それで、本当に何の用事なの?」  鍋島先生が顔を出した理由なんて聞かなくても分かる。  志藤先生にフラれたワタシを笑いに来たか、もしくは勝利宣言をしに来たか、そんなところだろう。 「だからお見舞いに来たって言ったでしょう」  鍋島先生はそう言ってベッドの脇に座ると、ワタシの額に手を当てた。 「熱はそんなに高くないみたいね」  そんな姿は本当に保健室の先生みたいに見える。実際に保健室の先生なんだけど、最近はすっかりそんなことを忘れてしまうことの方が多い。  いつ鍋島先生が本題に切り込むのだろうと思っていたけれど、結局、鍋島先生がほぼ一方的にとりとめのない話をしただけだった。  樹梨ちゃんが学校でやらかした面白い失敗とか、駅で見かけたかわいらしいおばあさんの話とか、昨夜スーパーで買った半額のお惣菜が予想以上においしかったとか。それから体育祭でワタシが転んだときの話は受け身が見事だったと嬉々として話していた。  志藤先生の話が少しは出ると思っていたからワタシは拍子抜けしてしまったのだけど、鍋島先生が帰った後、気持ちがさらに軽くなっていることに気が付いた。  木曜日にはほとんど熱も下がって、ごはんも普通に食べられるようになった。  だから金曜日には学校に行くとすみちゃんに言うと「体力が落ちてるから休んだ方がいいんじゃない?」と言われた。  どうやら、うちの家族は過保護すぎるようだ。  確かに、しばらくご飯を食べていないから体力は万全とはいえない。  だけど、これ以上休んでも心の痛みが消えることはないと分かっている。そして、痛みから逃げ出してしまったら二度と前を向けなくなるような気がした。  だからワタシは、痛みを感じなくなるまで、痛みに向き合うために学校に行くと決めた。  だって、ベッドに潜り込んで泣いているよりも、平気なフリをしてでも学校に行った方が絶対にかっこいい。たとえ志藤先生がワタシのことを何とも思っていないとしても、かっこいい姿を見せたい。 そんな強い決意を胸に秘めて家を出た金曜日。  学校の校門の側まで来て、さっそく回れ右をしたくなった。  運の悪いことに、今日は朝のあいさつ運動兼服装チェックの日だったらしい。  校門近辺に先生たちがずらりと並んで、登校する生徒たちとあいさつを交わしている。ときどき呼び止められて服装や髪型を注意される生徒もいた。  もちろん、その先生たちの中に志藤先生の姿もある。  金曜日は体育の授業がない日だから、うまくすれば一日顔を合わせずに済むと思ったのに。 「おはよう」  校門を遠目にして立ち止まっていたワタシに声を掛けてきたのは宇津木さんだった。  宇津木さんは、休んでいる間、何度かメッセージをくれたが、こうして顔を合わせるのは体育祭以来だ。  体育祭で胸を張って百メートル走を走り切ったことは、宇津木さんにとって大きな自信になったようだ。  大人しくて自信のなさそうな雰囲気が薄らいでいるように見えた。 「おはよう」  ワタシは笑顔であいさつを返す。 「もう体調は大丈夫?」 「うん、何とか。宇津木さんはなんともなかった?」  宇津木さんだってワタシと同じように練習をしていた。それに、ワタシよりも宇津木さんの方が虚弱に見える。 「体育祭の翌日はぐったりしてたよ。だから一日中なにもせずに寝てたの」  翌日無理をして遊び歩いたワタシがいけないのか。少し苦笑してしまう。  そうだ。欲をかいたからいけなかった。  欲を出さずに、志藤先生と二人で出掛けたいなんて言わなければよかったのだ。そうすれば熱を出すほどの疲労も、眠れなくなるほどの胸の痛みもなかったはずだ。  そんな後悔に意味がないことは分かっていても、そう思わずにはいられなかった。 「そういえば、志藤先生からご褒美にコレもらったよ」  そう言って、宇津木さんはサブバックにぶら下げたペンギンのストラップを見せてくれた。 「……へえ、……かわいいね」  ワタシはなんとか答える。ワタシがもらったストラップは、引き出しの奥にしまってある。 「多分、木下さんにもくれると思うよ?」 「そっか、楽しみ」  ワタシはちゃんと笑えているだろうか。  宇津木さんは笑顔で話してくれているから、ワタシもちゃんと笑えているのだと思う。  ワタシは宇津木さんと並んで話しながら校門に向かった。  視野の端に入る志藤先生を意識しないよう、先生たちに元気にあいさつをして、宇津木さんの言葉に笑顔を返す。  そしてそのまま、志藤先生の前もあいさつをして通り過ぎた。  一瞬、志藤先生が引き留めるような素振りを見せた。だけど、ワタシはそれに気付かないフリをして宇津木さんに話しかける。  玄関までたどり着いたときにはぐったりと疲れてしまっていた。 「木下さん、顔色が悪いみたいだけど、大丈夫?」 「まだ、体力が戻ってないかな。ちょっと疲れたかも」 「どうする? 保健室に行く?」  純粋な目で心配をしてくれる宇津木さんに少し申し訳なく思う。  だけど疲れてしまったのは本当だった。  ワタシは少し考えて、「ちょっと保健室で休んでから行くよ」と答えた。  登校するだけで疲れ果てるなんて情けないが、実際そのまま授業に出られるような気がしなかった。  宇津木さんに付き添われて保健室に行き、一時間目はベッドに横になって休むことにした。  一時間ゆっくり休めたことで、体力が回復したように感じたので二時間目から授業に出る。  それからは普通に授業を受けることができた。  そうして金曜日の最後、六時間目はLHRだった。  本日の議題は文化祭の出し物についてだ。  体育祭が終わってホッとしたのも束の間、すぐに文化祭の準備がはじまるのだ。  文化祭には大きく二種類の発表がある。一つはクラブや部活の成果報告。これは主に文化系の活動をしているところが行う。演劇部や吹奏楽部のステージ発表の他に手芸クラブの作品展なんかがある。  もう一つはクラス発表だ。  文字通り、クラスで何かを発表するのだが、教室展示とステージ発表のいずれかを選ぶことになる。  教室展示はお客さんからお金を取る内容や食品を提供する内容は禁止されている。そうしたいくつかの制限があるため、できることは限られていた。それでも、内容さえ工夫すれば、楽な準備で高評価を得ることも可能だ。  昨年、ワタシがいたクラスではクイズ大会を開催した。準備するのはクイズの問題くらいだったが、かなり盛り上がったのを覚えている。  デメリットは、文化祭期間中の拘束時間が長いことだ。どんな展示内容にしても、何人かは常に教室に残らなくてはいけない。  ステージ発表の場合、文化祭期間中はステージに立つ時間前後が拘束されるだけだ。  ただし、その準備は教室展示よりも大変になることが多い。  合唱なら歌の練習だけでいいのだけれど、合唱コンクールもあるのでやりたがるクラスはほとんどない。そうすると、ステージ発表は演劇となる。  演劇では出演者が練習をしたり、音楽や照明の使い方を決めたり、衣装や舞台装置、小物の準備までを限られた予算と時間の中でやらなければいけない。これはかなりの労力だ。  それなのに、なぜかワタシが休んでいる三日間で、ウチのクラスは演劇をすることに決まっていた。  休んでいたワタシが、もう決まったことに対して今更反対することなんてできない。今日のLHRでは、演目と役割分担を決めるようだ。ワタシは静かに事の成り行きを見守ることにした。  クラス長の大木君がみんなの前に立って進行する。もう一人のクラス長の笠原さんが黒板に何かを書きはじめる。  ウチの学校では二人のクラス長が一年の任期でクラス内の諸々を取り仕切る。  クラス長が決まった四月ごろは、大木君と笠原さんが交互に進行と板書を行っていたが、夏休み前には今のスタイルが確立した。それは、笠原さんが大きい声を出すのが苦手であり、大木君は堂々としたしゃべりが得意だったからだ。さらに、笠原さんの方が大木君よりも字がうまかったからという理由もある。  二年生も半分を過ぎてクラス長が板についた二人は、淡々と今回の議題内容について話を進めていった。  笠原さんが書き出したのは六つの童話のタイトルだった。 「図書館にある脚本集から文化祭でできそうなのを六つ探してきたけど、他にやってみたいものはありますか?」  大木君が教室の端まで届く声で言う。 「オリジナルは?」  一人が手を挙げて言った。 「誰が脚本を書くのかっても問題もあるけど、今から書くのは時間的に無理だと思います」  大木君がそう言うと、全員がそれに納得する。 「既存の作品で他にやりたいものがなければ、この中から決めていいですか?」  それにも全員が頷いた。おそらく、こんな劇をやりたいという具体的なイメージを持っている人はいないのだろう。  そして、挙手で六作品の投票を行い、演目は『眠り姫』に決定した。 笠原さんは素早く黒板を消して右端に大きく『眠り姫』と書く。  そして、その横に登場人物を書きはじめた。  「眠り姫」「王子様」「王様」「お妃様」「いい魔女十二人」「悪い魔女一人」「その他大勢」  出演者の数が多いな、と思っていたとき大木君が言う。 「少し脚本を変えれば、魔女の人数は減らせると思います。とりあえず絶対に必要なのは、眠り姫・王子様・王様・お妃様・悪い魔女の五人です」  それに合わせて笠原さんが今の五つのキャラの上にマル印を付けた。 「それじゃあ、まずはこの五人を決めたいと思います。自薦でも他薦でもいいです。誰か意見はありますか」  大木君が言うと、田所くんが手を挙げた。 「あのさ、これ、全員女子がやればいいんじゃない?歌劇団みたいにさ」  クラスがざわめく。それは男子が出演したくないというだけじゃないんだろうかとワタシは勘繰ってしまう。 「提案の理由を教えてください」  大木君は冷静だ。 「図書館にある脚本を普通にやっても面白くないじゃん。だけど大幅に変えるのは難しいだろう?歌劇団っぽく女子だけでやったら面白いかなって思ったんだよ」  すると、松浦さんが手を挙げた。 「それなら男女で逆の役をするとか、男子だけの劇にするのでもいいんじゃない?」  すると田所君がすぐに反論した。 「衣装はイチから作れないから持ってる服改造したり、演劇部から借りたりするだろ?男女入れ替りにすると服のサイズが難しいんじゃないかな。それに、舞台装置とか照明とか、力のあるやつがやった方がいい仕事もあるだろう?男子の方が少ないから、人数が足りなくなると思うよ」  今の脚本をそのままやるとすると、その他大勢を除いても女性役十五名、男性役二名だ。それが入れ替わると男子が十五名必要になる。そして、ウチのクラスに男子は十三名しかいない。 「それじゃあ、出演者を決める前に、出演を女子だけにするか決を採りたいと思います」  田所君の意見には説得力があると思った。だけど多数決では反対が多くなるのではないかと感じた。だが、ワタシの予測は外れ、クラスメートの八割が賛成に手を挙げた。  賛成に手を挙げた後ろの席の子にそっと聞いたら、「王子様役とお姫様役とかで絡むと色々面倒なことがあるじゃん」と言われた。  つまり、相手役になりたい人によるバトルとか、嫉妬されたりとか、誤解されたりとか、そんなことがあり得るということらしい。  ウチのクラスには全校的に人気のある池田君がいる。順当に行けば王子様役は池田君になるだろう。そうすると確かに面倒なことが起こりそうだ。  もしも志藤先生が王子様役だとしたら、ワタシも眠り姫の座を勝ち取ろうと奮闘するかもしれないし、眠り姫を演じた子に嫉妬するかもしれない。  そう考えて胸がチクリと痛む。ワタシは頭を振って志藤先生を思考から追い出した。  出演を女子だけにすることは決まり、どの役を誰が演じるのかを決める議題へと移る。残念ながら立候補する人がいなかったので、推薦によって決めることになった。  そのとき、何を考えているのか、ワタシを眠り姫に推薦したバカがいた。  しかもその理由が「最近ずっと休んで寝てただろう?だったら寝てる役、得意じゃないの?」というバカげたものだった。  しかし、他の推薦もなくワタシ以外が全員賛成してしまったのだ。  さらに心苦しくなったのが、宇津木さんが王子様役に選ばれたことだ。  なぜならその理由が「「木下より背が高いし、最近仲いいじゃん」だったからだ。どう考えても宇津木さんは巻き込まれただけだ。  いい魔女役は六名に減らされ、その他の役もくだらない理由で決まっていく。  一通りの役が決まったとき、いつもは積極的に発言するタイプではない栗山さんが手を挙げた。 「よかったら、私が脚本直そうか?」  栗山さんは文芸部に所属している。そして、自他共に認めるオタク女子だった。栗山さんの立候補に反対する人はいない。  ただ、どんな風に改変されてしまうのか若干の不安を抱いていたのはワタシだけではないはずだ。  そして、その他の配役や大道具や衣装、音響などの役割も一通り決めてLHRを終えた。  長い一日だった。学校ってこんなに長かったっけ?と思いながら、ワタシは机に突っ伏して少し休憩した。  久々の登校で劇の主役を任される羽目になるとは思わなかった。主演といっても眠り姫は寝ている時間が長いのでそれほど台詞を覚える必要はないとは思うが、栗山さんの改変によってはどうなるか分からない。  今のワタシにはそんな心の余裕はないのに、と考えて逆によかったのかもしれないと思う。あれこれと考える暇がないくらい忙しくなった方がいいのかもしれない。 「木下さん、大丈夫?」  頭の上から声が降り注ぐ。宇津木さんだ。  ワタシは顔を上げて笑みを浮かべた。 「大丈夫だよ。それより、ワタシのせいで宇津木さんも王子様になっちゃって。ゴメンね」 「あ、ううん。大丈夫。むしろ……いや、せっかくの機会だし。うん」  宇津木さんが気を悪くしていないようでホッとした。  宇津木さんはあまり人前に立ちたがるタイプではない。それでも前向きにこの配役を受け止めているのは、体育祭の百メートル走で得た自信が影響しているのかもしれない。 「あの、木下さん、よかったら一緒に帰らない?」 「うん、いいよ」  ワタシは鞄を持って立ち上がった。  宇津木さんとの帰り道では、栗山さんがどんな脚本を書いてくるかの想像を語り合った。  百メートル走の特訓で宇津木さんと一緒に過ごすことは多かったが、ほとんど練習ばかりだったので、こうした雑談も新鮮に感じる。  宇津木さんは思っていたよりもよくしゃべりよく笑った。  そして、分かれ道まで来たとき「家まで送っていくよ」と宇津木さんが言った。そうすると宇津木さんはかなり遠回りになるので断ったのだけど「朝も調子悪そうだったし、心配だから」と言われてしまうと断りきることができなかった。  少し前に志藤先生と並んで歩いた道を今日は宇津木さんと並んで歩く。あのときと同じようにワタシは笑えている。ワタシは大丈夫だ。  家の前に着き宇津木さんにお礼を言う。 「わざわざありがとうね。月曜日には完ぺきに元気になるから」 「うん、ちゃんと治してね」 「それじゃあ、宇津木さん気を付けてね」  ワタシは別れの言葉を告げたが、宇津木さんは立ち止まったまま動かない。 「あ、あの……」  宇津木さんが少し下を向いて言う。 「ん?何?」 「えっと、木下さんのこと、流里ちゃんって呼んでもいい?」  勇気を振り絞るように言った宇津木さんの様子がちょっと微笑ましく感じる。 「うん。もちろんいいよ。じゃあ、宇津木さんのことは……いずちゃんって呼ぼうかな」  すると宇津木さんはうれしそうに笑った。 「えっと、それじゃあ、流里ちゃん、バイバイ」 「うん、いずちゃん、気を付けてね」  ワタシは手を振って宇津木さん―いずちゃんを見送った。  鞄から鍵を取り出して玄関を開けて家の中に入る。そしてそのまま自分の部屋まで行ってベッドにバタンと倒れ込んだ。
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