11:術中の鼠③

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11:術中の鼠③

猫宮の自宅は、築浅の明るい2LDKだった。いかにも男性の1人暮らしの住まいという雰囲気であり、適当に散らかっていて、床にはダンベルや腹筋ローラーが転がっている。外の景色が一望できる大きな窓から、朝の光が差し込んできて、鼠田はまぶしさに目を細めた。 「あ、悪い、うちの猫が外の景色見るの好きだからカーテン開けたまんまだった。まぶしいなら閉めるか?」 「いや、大丈夫…」 鼠田が言い終わらないうちに、カーテンの隙間から縞模様の塊が鼠田に向かって突進してきた。 「うわあ!」 三毛猫は鼠田の足に強く顔をこすりつけ、尻尾を巻き付ける。初対面とは思えないほど熱烈な歓迎に、胸がどきどきと高鳴った。猫は上目遣いに猫宮を見つめて「みい」と鳴いた。あまりの可愛さに膝から崩れ落ちる。 「おい、大丈夫かよ?」 「う、うん…かわいすぎて…つい…うわああ」 猫は鼠田の腕の中に飛び込んだ。鎖骨のあたりにそっと爪を食い込ませ、鼠田の胸にしがみつく。よしよしと抱きかかえると、満足そうにゴロゴロとのどを鳴らし始めた。 「すげえな、こいつもともと人懐こいんだけど、初対面の奴にこんなに懐くの初めてだわ」 「かわいいね…名前は?」 「ミケ。俺が名付けた」 「フフ…三毛猫だから?」 「そうだけど…お前、何笑ってんだよ!!」 「…いや…あまりにもそのまんま過ぎて」 猫宮は賢い頭脳を生かし、てっきり猫にも難しい名前を付けそうだと思っていたため、思いがけず安直なネーミングセンスに笑いがこみ上げてきてしまった。 「分かりやすくていいだろ!おい!聞いてんのか」 ムキになって怒る猫宮から、逆立った毛並みと鋭い牙、たしたしと床に強く打ち付けられる尻尾の幻影が見えてきた。 (これじゃまるで、猫が猫を飼ってるみたいだ) 「ごめん…ちょっとツボに入った」 「はああ?!」 怒る猫宮をよそに、鼠田はしばらく笑い続けた。その様子をじっと見つめていたミケは、呆れたように「みゃ」と鳴き、鼠田の胸に顔を摺り寄せた。 ようやく笑いが収まったころ、鼠田は猫宮への手土産にチーズケーキを手渡した。すると、少し不貞腐れた様子だった猫宮の瞳が忽ちキラキラと輝いた。 「お前!なんで俺の好物知ってんだよ!」 「え?いや…なんとなく」 本当は、迷いに迷った挙句、有名アニメの中で鼠と猫がチーズを取り合っていたことを思い出して苦し紛れに選んだのだが、正直に伝えると猫宮がまた怒りそうだと思ったので、鼠田は心の中にしまっておくことにした。しかし、念願のおもちゃを手に入れた子供のように、心底嬉しそうにチーズケーキの入った箱を見つめる猫宮の様子に思わず笑いが零れてしまった。それを目ざとく見つけた猫宮が「お前!また笑っただろ」と赤面しながら怒りだしたので、とうとう鼠田は笑いを我慢できなくなってしまい、猫宮から飛び蹴りを食らった。 猫宮は今すぐにチーズケーキを食べたいと言い出したので、鼠田は指示されるまま折り畳みの小テーブルを広げ、チーズケーキやフォークを並べた。猫宮が淹れてくれた、爽やかな口当たりの紅茶とコクがあり濃厚な味わいのケーキとの相性は抜群で、猫宮は「うっま!」と大声で叫び、鼠田も大きくうなずきながら「本当においしい」と呟いた。夢中で食べ終えた猫宮がティッシュに腕を伸ばした拍子に、猫宮の腕が鼠田の肩に触れた。悪い、という暇もなく、鼠田は慌てた様子で後ずさりをした。 「おい、なんでそんなに遠ざかるんだよ」 「えっ?いや…あの…肩に当たっちゃったから、悪いなと思って」 「はあ?それぐらい普通だろ。もっとこっち来いよ」 「いやいいって」 「なんでだよ」 「いやあの、パーソナルスペースが」 「グダグダ言うなよ、俺が臭いとか?」 「違うって」 (そうじゃないから困るんだ…むしろ) 「はっきり言えよ」 猫宮はどんどん距離を詰めてくる。まるで尋問だ。逃れようとさらに後退しようとしたとき、鼠田の手に何かが触れた。振り向くと、それはミケの肉球だった。肉球の柔らかさに気を取られ、鼠田は体のバランスを崩した。 「危ない、倒れる!」 次の瞬間、鼠田は冷たい床の上に転がり、起き上がる間もなく鼠田に覆いかぶさるようにして猫宮が倒れてくる。 「いてえな、何すんだ…」 鼠田に文句を言おうとした猫宮の唇は、言葉を失った。 先ほどまでそこにいた、穏やかで優しい男はいなかった。 男の目は情欲に染まっていた。暴かれた本能が炎のように燃え上がり、猫宮を真っ直ぐに捕らえて離さない。その瞳に心臓を鷲掴みにされたかのように、猫宮の体は動かなくなった。 今にも爆発しそうなほど、どきどきと、心臓の音が鳴り響く。男はゆっくりと舌なめずりをした。彼の赤い舌が、弧を描きながら再び唇へと吸い込まれていく。 どんなに知恵をつけても、どんなに強くなっても、どんなに運命に抗ったとしても、俺はこの男の前では、ただの被食者だ。 甘く芳しい香りが広がってくる。男は威圧のフェロモンを出しているようだ。αがΩを確実に仕留めるための本能であるとは聞いていたが、ここまでとは思わなかった。呼吸が苦しくなるほどに濃厚な香りが肺に充満し、息が苦しい。うまく呼吸ができなくなり、徐々に意識が遠のいていく。 男のぎらついた瞳が俺の頸部を捉え、尖った犬歯が近づいてくる。 (2度目はない、か…) 初めて出会った日と2度目の結末は、違うようだ。 猫宮は全身の緊張を緩めた。もう何でもいい、と思った。 最初から分かっていたはずだ、俺たちはただのオトモダチにはなれないことを。 ー俺はいったい、彼とどうなりたかったのだろう? 男のあつい吐息を首元に感じ、迫りくる痛みへの恐怖に思わず目を閉じたその時だった。 「ウォウウウウ……!!!」 獣のような咆哮が耳元で鳴り響いた。 自身に圧し掛かっていた重い空気が霧散していくのを感じながら、猫宮は意識を失った。
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