12:抗った証

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12:抗った証

「…彰は熱を出して寝込んでいるだけだ。しばらく休養すれば、よくなるだろう。それよりも、君の怪我の方が重症かもしれない」 ソファーで寝息を立てて眠っている息子の布団をかけなおした後、医師は気づかわしげに、鼠田の左手首に幾重にも巻かれた包帯を見遣った。鼠田はさっと左手を背中に隠した。 「もう痛みはありません。処置していただきありがとうございます」 「そうか?…君がすぐに僕を呼んでくれてよかった」 猫宮と鼠田を診察した医師ー猫宮の父親であり、鼠田の主治医でもある彼は、安堵したように息をついた。 「この度の事故は、僕のα性が急激に発現したせいです。息子さんは何も悪くありません。本当に、申し訳ありません」 謝罪では足りないことは分かっている。自分は2度も、この人の大切な息子を危険な目に合わせてしまったのだ。それでも、頭を下げ続けることしかできない。鼠田は床に額を押し付けて土下座をしようとしたが、医師は首を振って制止させた。 「やめなさい。君だけが悪いんじゃない、むしろ今回は、自分のテリトリーに君を招くような無謀な行動をした息子が悪いと思う。Ωの発情期に、αとΩが密室で2人きりになることは危ないと、何度も言い聞かせてきたんだが…」 「…発情期…ですか…?」 鼠田は血の気が引きすぎて、その場に倒れそうになるのをこらえた。 「君は以前、抑制剤のせいで息子の香りが分からないと言っていたね。それは今もかな?」 逡巡ののち、鼠田は1つの可能性に思い当たった。 「………いや、心当たりはあります」 猫宮と過ごす時間が増えるにつれ、彼から甘い香りがしていることに気づいていた。それはとても良い香りで、いつまでも嗅いでいたくなる心地よさがあった。しかし、間近でその香りを吸い込むと言葉にできない焦燥感が湧き上がってくることを感じていた。 今日もなるべく香りを避けるために、物理的な距離をとれるよう注意していたが、アクシデントで2人の身体が折り重なった瞬間、その香りが鼻腔を満たすと同時に鼠田の理性は焼き切れてしまった。そのことを話すと、医師は腕組みをして考え込んだ。 「…それはおそらく、彰の放つフェロモンだろう。運命の番だけに放出される香りだね」 「申し訳ありません。距離が近づいた時だけ、少し香る程度だったので、柔軟剤の香りかと思っていました…」 「運命の番の放つフェロモンに抵抗できる人間はごくわずかだ。よく自分を取り戻せたね。代償は大きかったようだが…やっぱり痛むだろう?」 「いえ、こんな傷、全然大したことありません。気にしないで下さい」 暴走していた時の記憶はほとんどないが、猫宮が全身の力を抜き、無防備に身体を横たえ、意識を失った姿を目にしたとき、鼠田は眠りから覚めたかのように自分を取り戻しかけた。 しかし、なおも全身に渦巻く強烈な欲望には打ち勝てず、今にも猫宮の項に噛みつことする本能に抗うため、決死の覚悟で自身の手首に歯を立てた。強い痛みによって、なけなしの理性が引き戻された瞬間、ポケットの緊急抑制剤を大腿へと打ち込み、震える手で猫宮の父親へ連絡したのだった。 猫宮の父親は、部屋の隅で血だらけの手首を抑えたままうずくまっている鼠田と、真っ赤な顔でその場に倒れている息子の姿を見て、瞬時にすべてを理解した。すぐに鼠田を叱責しようとしたが、鼠田の傷口からあふれ出した血が指をつたって床へと滴り落ちる様を見て、言葉を失った。 「息子はおそらく、自分が発情期だと分かっていたと思う。そのうえで、君との物理的な距離を縮めて、君を試すような行動をとったのだろう」 「試し行動…ですか」 「ああ。初対面のとき、君が意識を失ったことを不満に思っていたんだろう。だから今回、君が理性を失わずに、Ωのヒートに耐えられるのか試したかったのかもしれない。…その傷は、君が運命に抗った証だよ。君は勇敢に戦ったんだ」 「そんなことありません。僕は今回も彼を傷つけようとしました。1歩間違えれば、大事故になっていたかもしれない。僕は、自分が恥ずかしいです。化け物のように、自分をコントロールできなくなってしまう、このα性が本当に怖い。僕が僕ではなくなってしまうような…」 強くかみしめるあまり、鼠田の唇からは赤い血が滲んでいる。 運命の番であるαとΩは衝動的に互いを求めあい、自分たちの気持ちと関係なく、出会った瞬間に契りを結んでしまうケースも多い。特にαは相手を自分のものにしたいと思うあまり、暴走して無理やりに番契約してしまうことも珍しくない。常用している抑制剤の効果もあるかもしれないが、それにしても、この男はよく耐えた。頼りなさげな細く薄い身体に似合わず、なかなかに芯のある人間かもしれないと、医師は小さく微笑んだ。 「にゃう」 心配そうに物陰から様子を見守っていたミケが、そっと顔を出し、甘えた声で鳴きながら鼠田の背中にぐいぐいと額を押し付ける。強張っていた鼠田の顔に、少しだけ光が戻った。 「ずいぶん懐かれたものだ。猫は好きかい?」 「はい、大好きです!」 「ハハ、やっぱりそうか。息子が、猫好きな友達に猫を見せてやりたいから、今週末だけ猫を貸してくれないかと言い出したときは驚いたけれど、まさかその相手が君だとはね」 「えっ…?猫宮くんは、今週だけ実家の猫を預かることになったって言ってましたけど」 「息子は意地っ張りだから、素直に言わなかったんだろうね」 自分が猫好きだと話したから、わざわざ借りに行ってくれたのだろうか? 鼠田を自宅に呼んで彼を試すために必要だと考えただけかもしれない。けれど、猫の話題で興奮した自分に、猫宮が見せてくれたまぶしい笑顔が脳裏に焼き付いて離れない。 「…君は君なりに、うまくα性と付き合う努力が必要だ。そして、彰もΩ性と付き合う努力が必要だ。僕は、君の主治医として、そして息子の父親として、なんでもできることはするつもりだよ。何かあればいつでも相談しなさい」 鼠田は、床に強く額を押し付け、土下座をした。 「僕は、もう2度と、大切な息子さんを傷つけません。申し訳ありませんでした」 医師は黙ったまま、震える鼠田の頭を静かに撫でた。 ミケは鼠田の身体にそっとすり寄り、小さく「みゃう」と鳴いた。
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