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13:最善の方法
温かい手が軽く肩に触れた拍子に、猫宮は深い眠りから目覚めた。どうやら誰かが布団をかけなおしてくれたようだと認識するも、寝起きで頭が働かず、まだ夢の中にいるように、全身がふわふわとしている。薄目を開けると、鼠田と猫宮の父親がテーブルの前で向かい合っているのが見えた。鼠田は父親に土下座をしようとして、止められている。
そのとき、猫宮は完全に思い出した。
意識を失う直前に聞こえた、獣のような咆哮。
慌てて項に手をやるが、噛まれた形跡はない。
鼠田は、壮絶なΩ性の猛襲に抗い、勝ったのだ。
(…悔しい)
もしもこれで、彼が自分の項を噛んでいたら、俺の「勝ち」だったのに。
(こいつ、俺にΩとしての魅力を感じないのか?なぜそこまでして、番になることを拒否するんだ?そんなに俺が嫌いなのか?)
まさかこんな奴に噛まれたいと思っているわけがない。けれど、心の中にそこはかとなく漂う失望感が消えなくて、顔がじわじわと熱くなる。こんなことを考えるのは全部、発情期のせいだ。そうに決まっていると、繰り返し自分に言い聞かせる。
猫宮が狸寝入りをしながら、心の中で葛藤を重ねている間も、鼠田は父への謝罪を止めない。そのうちに、父は猫宮の策略について話し始めてしまった。
「初対面のとき、君が意識を失ったことを不満に思っていたんだろう。だから今回、君が理性を失わずに、Ωのヒートに耐えられるのか試したかったのかもしれない」
(クソ親父め…俺の考えなんか全部お見通しかよ)
タイミングは完璧だった。
鼠田はα性の抑制剤を常用しているため、運命の番のフェロモンを感知できないはずであり、実際に初対面の際には全く猫宮の香りに気づいていなかった。しかし最近になって、鼠田が不自然に自分と物理的な距離を保とうとするので、鼠田が以前よりも番のフェロモンを感知できるようになったかもしれないと思った。そして、どこまで自分のΩ性が彼に作用するのか、至近距離で試すために鼠田を呼び寄せた。どうせまた今回も鼠田が熱を出して倒れて終わるだろうと、たかをくくっていた。
まさか、ここまで簡単に大きな「事故」が起きるとは思ってもみなかった。
「…その傷は、君が運命に抗った証だよ。君は勇敢に戦ったんだ」
父親の言葉で、鼠田が傷を負っていることを知る。おそらく、背中に隠している左腕に傷があるのだろう。よく見ると、手前にあったゴミ箱に血が付着したティッシュがいくつも捨てられている。床にも血の痕が残っていた。
「僕は今回も彼を傷つけようとしました。…僕は、自分が恥ずかしいです。化け物のように、自分をコントロールできなくなってしまう、このα性が本当に怖い。僕が僕ではなくなってしまうような…」
その瞬間、頭に冷や水をかけられたかのような恐怖を感じた。
(違う。それは俺だ。俺がお前を傷つけた)
猫宮がつまらないことを考えなければ、鼠田の身体が傷つくことはなかった。こんなに苦しめて、謝らせることもなかった。
彼は、自分の身体を犠牲にしてでも、猫宮を傷つけないように、力を振り絞ってくれたのだ。
つい先ほどまで、鼠田は自分に魅力を感じないのだろうかと浮ついた気持ちで考えていた自分が、心底恥ずかしくなった。
これは勝ち負けの問題ではない、もっと深刻な問題だ。そう分かっていても、猫宮は思わずにはいられなかった。
(完敗だ。今日、俺はこのαに、完全に負けたんだ)
これまで、さんざんαのことを馬鹿にしてきた。αへの嫌悪だけをばねにして生きてきたといっても過言ではない人生だった。
(俺は今日から、何を糧に生きていけばいいんだ)
絶望の中で、今にも泣きだしそうなか細い声が、誓いを立てるのを聞いた。
「僕は、もう2度と、大切な息子さんを傷つけません。申し訳ありませんでした」
(俺は、もう2度と、お前を傷つけない。そのために出来ることは全部やる)
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