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16:猫に鰹節
鼠田は帰宅後も、しばらく呆然としていた。
両親は、ただ虚空を見つめてため息をつくばかりの息子を心配した。
「お前、この間から様子が変だぞ。なんで左の腕だけ庇ってる?怪我してるんじゃないのか?」
「変なのは、前に倒れた時からよ…介抱して下さった方にお礼をしたいのに、結局何も教えてくれないままだし…いったい何があったの?」
母親の目に涙が浮かんでいるのを見て、思わず目を伏せた。
「…こんなことも全部、あなたがαだと診断されたせいよ。ずっとβだと思って育ててきたのに。どうしてなの?ううううう」
母親は泣き崩れてしまった。父親はオロオロとうろたえるばかりだ。
「ごめん、母さん。父さん。αに生まれてごめん」
謝りながら浮かんできたのは、去り際に彼が投げた微かな声。
(悪いのは俺だから、謝るな)
そして、関係を修復したいと言った僕に、君は怒っていた。
(お前、あの日、俺が何したのか分かってんのか?)
君は、自分だけが悪いと思っている。
悪いのは僕だ。君がどんな目的で僕を試したのだとしても、欲望に負けて君を傷つけようとしたのは僕なのだから。
そして君は、責任を一身に背負うために、僕と距離を置いたのだろう。
もしも今のまま、お互いの距離が開いていけば、僕たちは運命の番とは無縁で、「普通」の人生を送れるかもしれない。
けれど、僕の傷を見つめる、憂いを帯びた瞳が今も脳裏に焼き付いて離れない。
君を1人にさせない。
その思いが、折れかけていた鼠田の心をもう1度奮い立たせた。
(家の前で待ち伏せがダメなら…もう、大学で直接話しかけるしかない!)
翌日、鼠田は極度の緊張で身を震わせながら、派手なグループに声をかけるタイミングを伺っていた。
静かな場所を好む鼠田にとって、大声で騒いでいる彼らの輪へ入ろうとすることは苦行に近かった。
猫宮は自分たちに近づいてくる鼠田に気づいているのか、ちらちらと見ているようだが、揺れ動く視線を捕まえることはできなかった。
笑い声が途絶えた瞬間に、どくどくと鼓動する心臓を抑えながら、小声で話しかける。
「あの…ち、ちょっと猫宮君に用があって、少し話してもいいでしょうか」
その場を回していた、グループの中心らしき人物に話しかける。蛇のような目をした、一際大柄な男だった。
「お前…誰?」
「あ、あの…君と同じ医学部1年の鼠田です…」
「お前…猫宮くんに付き纏ってたβだよな?お前みたいなクソβが側にいると迷惑だから、猫宮くんは俺らのところに来たんだよ。そんなことも分かんねぇのかよ。脳みそ入ってんのか?」
猫宮くんは黙ったまま下を向いている。
「あの、ほ、ほんとうに、猫宮くんがそう言ったんですか?」
「はあ?」
「ね、猫宮くんは優しい人です。そんなことを言う人ではありません」
「口答えかよ?生意気な奴だな」
周囲の華やかな男女たちが、鼠田の頭の天辺から足の爪先まで見て、馬鹿にしたように鼻で笑っている。それでも、もう後には引けなかった。
「猫宮くん、そう言ってたよなあ?お前は邪魔だって」
「……」
猫宮は俯いたまま、沈黙を貫いた。
「黙ってるってことは肯定と同じだよな?まじでウケんだけど」
周囲からの嘲笑に囲まれる中、鼠田はショックを受けていない自分に驚いていた。
(嘘だ。彼はそんなことを言う人じゃないから)
そう信じて疑わない心を、少し誇らしく思った。
平然としている様子の鼠田に腹を立てたのか、男は尚も口汚く罵ってくる。
「お前なんかが猫宮君に話しかけるんじゃねーよ。お前みたいなクソβ、ほんっと目障り。どうやってこの大学に入ったわけ?それともまさかの色仕掛けとか?」
男は鼠田の胸ぐらをつかみ、シャツを思い切りひねり上げた。
「よえー男」
男はそのまま、鼠田を放り投げた。床に倒れた拍子に、近くの椅子が倒れて大きな音を立てた。足をぶつけ、強い痛みで息が詰まる。
誰かが悲鳴を上げたのが聞こえた。
男は鼠田の腹を蹴り上げながら続ける。
「お前みたいな奴は、ずっと俺らαのおこぼれを貰って生きていくしか能がないんだ。無様だな」
鼠田はぐっと唇を噛み締めた。僕がもし、この男よりもっと強ければ、一方的な暴力にも屈することは無かっただろう。
じっと睨みつけると、男は顔を歪めた。
「なんだよその目は!ああ?」
男が鼠田に殴りかかろうとしたその時、声が上がった。
「やめろ、そいつは弱くない。お前みたいな性差別野郎よりずっと勇敢だ」
「ね、猫宮くん…」
「ほら、立てよ」
猫宮は床に倒れたままの鼠田へ手を差し伸べた。
「ありがとう…」
その手を取って、ふらつきながらもなんとか立ち上がる。
猫宮は、何かが吹っ切れたかのような笑みを浮かべていた。
「猫宮くん、そんな奴の味方するわけ?」
「…お前みたいに、力を振りかざすしか能がない哀れなα様よりずっと良い」
吐き捨てるようにそう言うと、猫宮は足の痛みでうまく歩けない鼠田に肩を貸し、そのまま教室の外へと歩き出した。周囲の人間は、黙って道を開けた。
男は2人に憎々し気な視線を投げた後、ぎらぎらとした目を光らせながらつぶやいた。
「俺を甘く見たこと、後悔させてやるからな。卑しいΩめ」
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