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03:先生の告白
先生はしばらく何も言わずに、黙ったまま猫宮さんに殴られた右頬の処置をしてくれた。痛かったが、腫れてはいないようだ。処置が終わると、先生はうつむいたまま静かに悪かったね、とつぶやいた。
「私と息子の話を聞いてくれないか?」
アルファだと思って育ててきた1人息子がオメガだと知ったとき、落胆を隠せず、酷い言葉を投げかけてしまったこと。それに対抗するかのように猫宮さんが努力を続け、自らの意志で、アメリカへの留学と東都大学の医学部への進学を決断し、実現したこと。そして、目標を達成した今でも、自分がアルファでないことを悔しく思う気持ちから、アルファへの嫌悪を燃やし続けていること。それらを訥々と語り終えると、先生は深いため息をついた。
「彰に暴言を吐いてしまったこと、私は本当に反省しているんだ。彰はまだ若い。これからアルファへの嫌悪だけをよすがに生きていくなんて、あまりにも悲しすぎる」
そう言った切り、先生は頭を抱えたまま黙り込んでしまった。
「あの…先生はどうしてわかったんですか?僕と彼が運命の番だって」
ずっと聞きたかった質問を口にしたとたん、自分の声が震えているのに気が付いて、恥ずかしくなる。けれど、どうしても聞かなければいけない気がした。
先生は一瞬驚いた顔をして、すこし微笑んだ。
「…伊達に30年近くバース専門医として働いてないさ。やっぱり運命の番の2人は、お互いへ放つフェロモンもオーラも本当に特別なものだ。魂が歓喜してる…なんていったら、現実主義者の彰には鼻で笑われるだろうけど、昨日までの香りとは全く違う」
「どんな香りなんですか」
「表現が難しいけれど…アルファを惹きつけて捉えて離さないような、蠱惑的な香り。彰のは、そうだな…バラの香を煮詰めたような感じかな」
僕はまだ、猫宮彰という名の青年のことをよく知らない。それでも、昨日の血走った瞳や挑発的な言葉は、バラのイメージにぴったりとはまった。
一見美しく可憐だけれど、鋭い棘を大量に隠し持っている。それは、彼が純潔を守り、たくましく強く生きるために身に着けた、自衛の術。
「鼠田くんも、嗅いでみたいか?」
唐突な質問に答えられず固まっていると、先生は視線をそっと足元に落とした。
「…前から話しているとおり、君が飲んでいる抑制剤の作用は非常に強い。途中で服薬を止めたとしても、運命の番のフェロモンを感知する嗅覚や、抑制されたアルファ性は基本的に回復しない。まあ臨床データが不足しているから、まだ未解明な点も多いがね」
その言葉は、すとんと胸に落ちた。さみしいでも悲しいでも安堵でもなかった。
正直、今の僕には、彼が運命の番であるという自覚はない。けれどついさっき、彼の頭を撫でていた時の感触がよみがえると、胸の奥がくすぐられたかのように、恥ずかしくて心がざわざわする。
オメガやアルファ。そんな性別の前に、今はまず、彼のことをもっと知りたいと思った。
どんな服が好き?どんな音楽を聴くのか?どんな食べ物が好き?映画は見る?
「僕は…僕は、猫宮さんのことが運命の番だとかは分からないけど、でも、とにかく、もっと知りたいです。話してみたい。今よりもっと嫌われるかもしれないけど」
そう言うと、先生はそっと僕の頭を撫でた。
「たくさん引っかかれると思うよ、凶暴だからね。でも根は本当に優しい子なんだ。」
見知らぬ人をチンピラから助けた挙句、自分が襲われる危険もあるのに、アルファを家まで連れ帰ってくれたこと。思わずその小さな頭を撫でた時、かすかにふるえていた背中。
「はい。…優しい人ですね」
そう言って微笑むと、先生はいたずらっ子のように笑って言った。
「…引っ搔き傷の手当は責任もって私がするから、また来なさい」
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