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春風が吹いた。四月に吹いたその風はまだ冷たくて、ギスギスした私の指の間を通り抜け、私の体がここに存在してないかの様になににも遮られることなく、カーテンを揺らしながら三階の教室に吹き込んだ。
窓際の席に座った私は少し空いた窓から吹き込むその風を肺いっぱいに吸い込む。そして黒板の横にある時計を見てもうすぐ鳴るであろうチャイムを想像した。鳴った瞬間にこの狭い教室から飛び出して走り出したい。そう強く願ったのに次の瞬間には何処にも行き場がないことに気づいて、やっぱり私はこの教室にいるしかないのだと絶望してしまう。
私の左手の指には小指から人差し指まで一本ずつ大袈裟なほど分厚い包帯が巻かれていた。その手を見るたびに自分で自分のことが分からなくなる。そして得体のしれない自分のことを考えると無性に言いようのない不安に襲われた。
「はい。終了。後ろから回してください」
チャイムの音とほぼ同時に担任の教師の声が教室に響いた。橋田先生はまだ二十代後半の体育教師だ。明るい性格と健康的なルックスで生徒たちから好かれている。でも私は高校に入学してから高校三年生になった今まで一度も体育に出席したことはない。ピアノを弾くことを最優先にしていた母親は指が怪我する可能性を徹底的に排除したかったのだろう。だから私と橋田先生の間には他の生徒とは違う隔たりがあるように感じた。そんな彼が高校三年目の担任教師になってしまったことに私は少し不安がある。
でも橋田先生が担任をするこのクラスで過ごすのは後一年だけだ。だから私は少しでも円滑に過ごしたかった。なんとか何事もなくやり過ごしたかった。なのに今の私はそれが全くもってできていない。
先生はざっとテストの解答用紙を見ると一瞬手を止めて、すぐに私に視線を移した。私はその視線に気づいていながら窓の外を見つめ続ける。気まずいような、それでいて無視されると少し寂しいような面倒な感情が私の心をシャトルランのごとく行ったり来たり走り回っている。
「坂本、後でちょっと職員室来なさい」
坂本、自分の名前を呼ばれて私は仕方なくはい、とだけ返事をした。隣の席の陽子が心配そうに私の顔を覗き込む。彼女は一年の時から同じクラスできっと私が一番仲のいい同級生だ。
「菜々子大丈夫?また手が痛んだの?」
陽子はそう言うと私の左手に目を向ける。二ヶ月前、骨が見えるほど肉がえぐれてしまった左手は最初の一週間こそ激痛だったが、今ではそこまで痛まない。なのに私は「ちょっと痛くて集中できなかった」と嘘をついた。
私は昨日もテスト用紙を白紙で出した。昨日と今日を合わせたらもう四科目は白紙で提出されている。本当は手なんてもう痛くない。それに私の利き手は右手だ。だから字を書くことに困ったりする筈はない。きっと橋田先生もそれに気づいていて困惑している。
陽子とそう話していたら斜め後ろから視線を感じて私は振り返った。黒い天然パーマの髪に、大きな黒縁メガネをしている彼は同じクラスの田中羊太だ。私と目が合って彼はすぐに困った顔をして私から目を反らす。目を反らすくらいなら最初から見なければいいのに。
「ちょっと、羊。あんたまた菜々子のこと描いてたんじゃないの?」
私の視線に気づいた陽子が後ろを振り返り、彼にそう聞いた。彼はもじゃもじゃの天然パーマの髪の毛と名前のせいでクラスのみんなから羊と呼ばれていた。美術部に所属している彼は今度絵画コンクールがあるから私の肖像画を描かせて欲しいとお願いしてきた。急な頼みごとでもあったが、私はその時ピアノコンクールを控えていて多忙だったため断ったのだ。しかし彼は諦めていないようで、時折視線を感じて振り返ると慌ててスケッチブックをさっと隠している。
「ち、違うよ。描いてない」
「菜々子は忙しいの」
「でもコンクールはもう出ないでしょ?」
「そ、それは…」
陽子はなんて言ったらいいか分からないって顔で私の左手を見た。私はその視線が嫌で机の上に置いてあった手を下に降ろす。左手を怪我してから私のピアノは絶望的なものになった。きっと治ったとしてもすぐには前みたいに弾けないだろう。医者も血だらけの私の手を診察して、まるで化け物を見るかのような目で私の顔に視線を移した。
「羊、私ね自分の顔嫌いなの。だから絵もいや」
「どうして?」
「どうしてって…嫌なものは嫌なの」
「僕は良いと思うよ?バランスも取れてるし、その三白眼も素敵だと思う」
彼の言葉に私はため息を吐く。何を言ってもだめだ。羊の天然は髪の毛だけではなく脳にまで範囲を広げている。いや、もしかしたら脳が天然だから髪の毛も天然になるのかもしれない。脳から天然成分がドーパミンのごとく溢れ出て、それが毛穴まで染み出して、羊は天然パーマになってしまったのだ。きっとそうに違いない。
「とにかく、菜々子が嫌がってるんだからやめなさいよね」
陽子が強く言うと彼はまだ何か言いたげだったがぐっと口をつぐんだ。私は前に座り直して鞄の中に筆記用具をしまった。テスト期間中の三日間は授業が午前中だけだからテストが終わると勝手に帰ってもいい。でも私は担任に呼び出しをくらっているからこれから生徒指導室に向かい、苦悩の時間を歯を食いしばってやり過ごさないといけない。
菜々子、小さな声で名前を呼ばれて私は陽子の方を見る。すると彼女はニヤニヤ笑いながら教室の入り口を指差していた。そこに立っている智紀の満面の笑みを見て更に憂鬱な気分になる。わざわざ放課後にうちの教室まで迎えに来る必要なんてないのに、彼はみんなに見せびらかしたい一心で私の教室に顔を出す。
智紀とは去年の冬から付き合いだした。付き合ってるって言ってもまだキスしかしていない。明るくて少し子供っぽいなところがあるけど彼は習い事でチェロを演奏していて、大学も音楽推薦を目指している。音楽に対しては人一倍真面目で、ピアノをやっていた私と彼はなんとなく話が合った。
彼の事を特別男として意識したりはなかったけど、嫌いでもない。なんとなく一緒にいるのにちょうど良い相手だった。だって高校生活なんてそんなものだ。みんな彼氏がいたり、彼女がいたりしても付き合っている相手がいるってことに満足しているに過ぎない。智紀も彼女が欲しくって丁度いい私に声をかけたのだろう。私だって同級生の「彼氏作らないの?」っていう誰かと付き合うまで無限に続く恋バナから逃れたい一心で智紀との交際に同意した。このクラスにいるカップルのどれくらいが本当に互いのことを本当に好きになって付き合っているのだろう。顔が可愛いから、アイドルに似てるから、サッカーがうまいから、少し悪っぽくて普通の男子とは違うから。私たちが恋愛対象を決めている判断基準なんていかにも単純で馬鹿らしいものばかりだ。なぜだろうと考えてみると答えは数学の計算式よりも簡単に導き出される。私たちはどう考えてもまだまだ子供で、誰かを愛したり慈しんだりする感情がそんなに簡単に育まれるはずがないのだ。一丁前に大人ぶりながら私たちは十七歳になってもいまだに大人の真似事を繰り返している。その事実をに落胆しながら自分もその中の一人だという矛盾した事実を嫌という程思い知らされるのが智紀が迎えに来るこの放課後の時間だ。
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