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私は陽子に手を振ると鞄を持って智紀の元へ向かった。私より少し背の高い彼は堅苦しいほど制服のシャツのボタンを上まで締めてものすごく模範的な笑顔で私を見つめてくる。
「テストどうだった?」
「うん、まぁまぁかな…」
「菜々子は頭いいから余裕でしょ。一緒に図書館で明日の予習しない?」
「ごめん、担任に呼び出されてて」
私の言葉に智紀はあからさまに眉をひそめた。彼には昨日のテストも白紙で出したことは伝えていない。自分の中で渦巻いているわけのわからない感情を智紀に言葉で伝えるのは難しかったし、もし言葉にできたとしても智紀にはわかってもらえないような気がした。
「呼び出しってなんで?何かしたの?」
彼は自他共に認める優等生だ。大学も推薦で行けるだろうし、学校内でも男女問わず人気がある。所謂スクールカーストの頂点にいる様な性格のいい青年なのだろう。私も少し前まではそうだった。自分がそうだって疑わなかったし、これからの私の未来には明るい希望しかないものだと信じて疑わなかった。だから数ヶ月前の私と同じ目をしている智紀を見ているとまるで責められている様な気持ちになる。
「ちょっと手のことで…」
「あぁ…まだ調子悪いの?」
「うん。でも大丈夫だから」
「じゃあさ、教室で待ってるよ。すぐに終わるでしょ?」
別に待ってて欲しくはなかったけど断るとまたなんで?と聞かれそうで私はありがとうと言って笑った。さっさと先に帰ってくれなんて言ったら彼はどんな顔をするだろう。友達に拒絶されたことのない彼はもしかしたら泣き出してしまうかもしれない。
そのまま教室に残り陽子と話だした智紀を置いて私は四階の生徒指導室へと向かった。四階は音楽室があって吹奏楽部の練習の音が聞こえるから行きたくない。ピアノを弾かなくなってから楽器の音はもちろん、私の体は全ての音楽を拒否していた。
失礼します、そう言ってノックをすると中から橋田先生の声がした。扉を開けると狭い机に椅子が二つ並べられていて、向かい側には先生が座っている。まるで刑事ドラマの取り調べみたいだな、なんて思って笑いそうになった。
「座っていいぞ」
そう促されて椅子に腰を下ろすと先生は四枚の白紙のプリントを机の上に並べた。それは清々しいほどの真っさらなテスト用紙で、もう何もかも物凄くどうでもいいっていう感情に陥ってしまう。
「何か言うことあるか?」
「すいません…」
「そうじゃなくて、先生は理由が聞きたいんだ。どうして白紙で出したんだ?」
私は黙って左手の包帯を爪で掻きむしった。なんて言っていいかわからない。でも黙っていたら先生はもっと私のことがわからなくなるだろう。どうしようと思っているうちに時計の針が進んでいって、私はただひたすら早く解放されないかと願うばかりだった。
「手、痛いのか?」
きっと橋田先生はすごく気を遣ってわざと優しい声を出した。普段見学している体育の授業で大きな声で怒鳴っている先生とは大違いだ。その声はまるで小さい子をあやす様な甘ったるい声で、まるで大人の優しさを押し付けられているみたいだった。そんな声で私が懐柔できると思われているのならば酷く心地悪い。そんな風に扱って欲しいわけじゃない。でもどう接してもらいたいのかもはっきりとは伝えられない。
「その手、自分でやったんだってな。お母さんから聞いたぞ」
包帯を掻き毟る指に力がこもる。なんでそんな余計なことを母は先生に伝えたのだろう。それを知ったところでこの人に何ができるっていうのだろう。同級生には自転車で転んだって話にしてあるが、私はもう二年自転車には乗っていない。こんな私を心配した親にはもううんざりするくらいカウンセリングに連れていかれたし、週に一回は整形外科に通っている。これ以上私に助けは必要じゃないのに、母も先生も友達も私を放っておいてはくれない。
「どうしてそんなことしたんだ」
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