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teaser 惑乱の香り
☆こちらは『香りの献身』を書く上でのイメージの習作になります。
本篇は 1邂逅から 始まります。
その青紫色の香水は、先生にとって麻薬みたいなものだ。
日頃はいつでも冷静で怜悧な美貌を崩すこともない先生が、この香りに溺れ情事に没頭するときは理性をなくしたようになる。
隣の部屋から女の甲高い嬌声とギシギシと寝台の軋む音が漏れ聞こえる。隣の部屋まで漂ってくる香水の、艶めかしくすら感じる香り。少年は顔を手で覆い、布団をかぶってそれらをできるだけ感じなくしようと自らの寝台の上に小さく丸くなった。
幾たびこうした眠れぬ夜を過ごしただろう。いつかこの状態に慣れ切ってしまえば、焼けつくような胸の痛みも消えてなくなるのだろうか。
沢山時間がたって声がやみ、狂おしい沈黙の後。隣の部屋の扉が開いた音がした。
先生が部屋を離れた音だとわかり、少年は急いで湯をとりにいく。先生が脱衣所の奥でそのままシャワーを浴びている間に、急いでたらいに湯を入れて、部屋の方に取って返した。
恐る恐る扉を開けると、中には真っ赤な薔薇のような色の唇をして、黒髪をしどけなく垂らした豊満な裸体の女性が、いつものように寝台の上で足を伸ばして座り少年の到着を待っていた。
「坊や。いつもありがとう、ね」
にいっと微笑む笑顔は美しいが婀娜っぽさが目立っておよそ清純な感じではない。先生が選ぶ女性はいつでもこういった黒髪の妖艶な人ばかり。それが商売女でも、街の女でも、貴婦人でも。
「拭ってくださる?」
女の長い睫毛に煙る瞳が見開かれ、少年は魅入られたように傍に引き寄せられる。
女は肉感的で形の良い白い足先を少年に向かって見せつけるように伸ばした。
残滓の残り香にくらくらとする。少年はきゅっとふっくらした唇を噛みしめると、寝台の下、彼女の足元に跪いて無言で柔らかな小布で彼女の足先から身体を拭い始めた。女はそんな彼を上から見下ろしながら嫣然と微笑む。
情事の後の様々な匂いが入り混じった部屋。ムッとする匂いの中に強く香るのはあの香水。鼻の利く少年には頭がずきずきするほど辛い。ふわっと振りまくだけならば、素晴らしい名香なのに、こんなの台無しにもほどがある。
女の傍らに香水瓶が今日も転がっている。暗がりの中オレンジ色の小さな電球だけが付けられたこの部屋の中では、その瓶の持つ美しい本来の青紫は打ち消されている。横倒しの瓶は淀み濁った昏い色で、禍々しい毒薬の様にすら見えるのは少年の心の投影なのか。
「ふふっ。くすぐったいわ」
膝をついた状態から立ち上がった拍子に、彼女の胸元にまで手を動かしてしまって、少年は思わず手を引く。女は艶めかしく唇を釣り上げるようにして微笑みながらその張りのある手を掴んで逆に豊満なそれを手の甲に押し付けてきた。びくっと震える純情な少年の反応を楽しむかのように。
「可愛い子。私は美しい人が大好きよ。先生も。あなたみたいに綺麗な子も」
いいしな、首元までしっかりと止まっていた少年のシャツのボタンをはずし、襟を寛げながら長い指先を彼の鎖骨をなぞる様に這わせてきた。
「瑞々しい若木みたいにしなやかな身体ね。綺麗に筋肉をまとってる、褐色の肌もセクシーだわ。その菫の花やアメジストを溶かしたような深い紫の瞳も本当に綺麗。金色の墨を流したような目の中の環もね」
女は先生との情事を過ごした直後だというのに、こうして少年を誘惑しようとする。すらりとした白い指先を彼の厚みのある赤い唇に押し付け、感触を確かめるように悩ましく拭うと、香水を漂わせた身を寄せて目を見開いて身じろぎできなくなった少年の唇を奪おうとする。
「ヴィオ! なにをしているんだ」
戸口には艶やかな黒髪をシャワーの雫で湿らせた先生が真っ白な夜具を着た姿で立っていた。情事のけだるさをまとった姿は男の人なのに妖艶なほどの美しさで、思わず見とれてしまう。まるで二人の魔性に挟み込まれ、弄ばれている心地だ。
少年はびくっと女から身を引くと、先生に向かって振り返ることもできずに棒立ちになった。
「あら怖い声。あなたが女のお世話を頼んでいるくせに、本当に勝手な冷たい男よね」
女はシーツを手繰り寄せて豊満な身体にまとうと、立ち上がり少年の手を再び引こうとした。
「ベラ、それに構わないでください。ヴィオ、もういい。湯を置いたのならすぐに部屋へ帰れ」
「こんな男のとこにいるのはやめて。私のところへいらっしゃい。朝から晩までずっと可愛がって上げるわ」
女の黒檀のような黒髪と瞳孔と光彩の境が曖昧なほど黒い目は魔性のような恐ろしさで、ヴィオは身動きができず魅入られたようになってしまう。
不意に後ろからぐいっと強い力で引かれ、背に硬い引き締まった体躯が当たる。あれほど妖艶な人の裸体を前にしても平静であったのに、先生には服の上から腕を掴まれ触れられるだけでヴィオの鼓動は高鳴っていく。
「余計なことはせず。お前は言われたことだけやればいい」
そういって背中を押されて少年は戸の外に締め出された。
「セラ、そんなに意地悪ばかりしてると愛想をつかされるわよ」
呆れたように窘める女の声に、セラフィンは濡れた長い黒髪をかきあげる。
「あれはいくところがない。だからここにおいてやっているんです」
「ふうん。本当にそうかしら? そんな理由だけで気難しい貴方が他人を傍に置くなんてね? ふふ。あんな風に悲しそうな顔ばかりさせていたら……」
「なんだっていうんです?」
セラフィンは迫力ある美貌で片眉を不愉快に釣り上げると、青い目を見開いて女をねめつけるが、彼女はまるでどこ吹く風だ。彼女は魔物を操る伝説の魔女のような顔でにたり、と笑った。
「可愛い子猫ちゃんが大好きな、悪い魔女に攫われちゃうわよ」
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