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65 略奪編 逃亡
あれからどのくらい時間が経ったのか。体感的には半刻程度だっただろうか。
夏の日はすっかり傾き沈み、寝台に寝ころんだままのヴィオの足元にあった明かりをカイが灯すほどだった。すっかり大人しくなったヴィオに、カイも一見穏やかに接するようになっていた。
実際のところ身動きするたび熱っぽくだるくなり、あの後すぐにぐったりして倒れこんでしまったらカイはあれ以上は触れてこなかった。これ幸いとそこからはそのまま具合が悪そうにしていることにしてやり過ごしていた。
興奮すればするほどフェロモンが出ているのではないかと感じ恐ろしくなったので、とにかく安静にし、体力を温存してなんとか隙をついて逃げるしかないと思ったからだ。
この建物の構造は雑駁にしかわからない。確か以前リアと泊まる予定だった宿のある駅とカイの暮らす独身者の寮や官舎は近くにあったと記憶している。
(荷物は兄さんがどこかに隠してもってるから……、本当は抑制剤を飲みたいけど、探してる暇が惜しい。とりあえず何とかここを逃げ出したら駅に行って、交番に連れていってもらって、ジルさんに連絡してもらおう)
中央にきてからほとんどセラフィンと行動を共にしていたので何ら困ることなどなかったが、例えば街ではぐれたときなどは一人で彷徨かずできるだけ速やかに交番に行ってジルを呼び出してもらい、連絡をもらったらセラフィンがすぐに迎えに行くからと何度も何度も言い含められていた。
(数年前にできた中央の条例で、意に染まない番にならないように、危険を感じたオメガが交番に逃げ込んだら保護してくれることになったって。交番に行けば抑制剤ももらえるようになってるって。それに番関係は双方の合意のみによって行われるに然るべきって)
セラフィンの兄らの若手の議員が推奨してきたオメガの保護運動の結果だと教えたくれたのだ。逆にオメガによってラットさせられそうになったアルファのための抑制剤も交番に置かれているらしいので勿論そのあたりは平等と言えた。
ヴィオは寝台に寝かされたままぼうっとした頭を叱咤するように考えていた。番になる方法とはどんな風であったかと。
(発情期にアルファがオメガの項に噛みつくと、消えない痕が残って番になるって。でも僕は発情期が来たことがないから、今すぐにはこないかも? 兄さんはああいってたけど、今日は番にされないかもしれない)
そもそも発情期とはどんなものなのか。あの穏やかで静かな声でしっとりと話をするレイ先生が感じ切った大声を立て喘ぐほど激しいものだと、理解はしていた。
(あれに比べたらまだまだって感じ。ぞくぞくするけど、熱っぽいだけでまだ動けると思う。兄さんのフェロモンだって多分我慢できる。兄さんがこれ以上変なことをしてこなかったらだけど。でも一番いいのはここから逃げること)
ちょうど少し前、カイは食事を買いに出ていったところだ。どこまで買いに行ったのかも、どのくらいで戻るかもわからない。もしかしたらこの建物の隣の棟にある食堂になにかしら調達することも考えられたが建物の外には出ているに違いない。
『長い夜になるだろうから。食べれそうなものを買ってくる。なにか食べたいものはあるか?』
ヴィオを半分手に入れたような気になっているカイは、ご機嫌をうかがうように、いつも通りに近い優しい声を出したけど、ヴィオはちっとも嬉しくなかった。眠ったふりをして無視することもできたのだが、せっかくのチャンスを逃す手はない。
あえて甘えて要求することにより、ぎりぎり手に入りそうで、それでも探さなければならないようなものを考え付こうとした。
「冷たいものが食べたい。水菓子とか、果物とか」
熱が出た時にそう強請ると、カイは隣町まで出かけて果物や缶詰を買ってきてくれて、沢に行って冷たく冷やして食べさせてくれた。
カイはそれを思い出したのか昔のような穏やかな笑みを浮かべるとヴィオの頭を撫ぜてきた。
「発情が近くなっているから身体が準備するために発熱しているんだ。冷たくて美味しそうなものを買ってくる。この建物は頑丈にできているから部屋にいる分には大丈夫だと思うが、日が暮れると仕事を終えて寮に戻ってくる者も多い。お前、匂うから絶対に外に出るなよ。喰われるぞ』
そう先ほどの気性の激しさを内包した恐ろしげな顔で釘を差し、ヴィオの頬に口づけると、カイは機嫌よく買い出しに出ていった。
ヴィオは時間を測りながらのっそりと身体を起こした。外から鍵をかけて出ていったが、内側からきっと開くだろう。兄が買い出しに行っている隙になんとかここから逃げ出さなけばならない。心臓鼓動が高鳴り緊張と恐れから足がふらついたが自分自身の太ももを叩いて身体を叱咤する。
(しっかりしろ。今しか好機はないぞ)
今自分がどれほどのフェロモンを発しているかはヴィオには理解できなかったが、カイがいわゆる「ラット」と呼ばれるアルファが陥る制御不能の状態にまでは至ってはいないところを見ると、発情はし切っていないように思う。
(兄さんから、逃げ切れるかな……、いや、逃げなきゃ)
もしも今すぐにカイが引き返してきたらどうしようとか考えるとドアノブにかけた手が震え足がすくんだが、本気で走ればドリ派のカイより、ソート交じりのヴィオの方が足は速いと自分を奮い立たせる。
(身体さえ掴まれて抑え込まれなければ逃げ切れるはず……)
簡単な鍵を外して重たい扉をゆっくりと開ける。そっと外を覗くと内廊下になっていて、似たような扉がいくつか続いている。廊下が途中で途切れ、階段も見えた。目標を定めたらヴィオは動きが早い。多少ふらつきながらも一気に階段まで走り寄ると、幸い人がいない階段を裸足のまま一気に駆け下りた。
カイの部屋があったのは3階だったようで、下まで誰にも会わないかと思っていたら1階の階段付近から急に人が増えてきた。長い髪を振り乱し、はだけたシャツにずり下がったズボン姿で血相を変えて走るヴィオを見て驚いてむしろ追いかけてくるものもいた。
「おい! 君!」
声をかけられたがここで呼び止められるわけにはいかない。必死に走ると後ろからおいかけてきた声が前にいる筋骨隆々とした数人の男たちに声をかけた。
「その子を止めて」
前のいる男たちも走ってくるヴィオに驚愕の声を上げて待ち構え、後ろからの男に挟み撃ちにされる。
最後の力を振り絞っての逃避だったのでヴィオは急に止まることもできずにカイぐらい身体の大きな男に抱き留められ、後ろから来た男には腕を掴まれてしまった。
前にいた数人の男たちの向こうはもう玄関で、ここはロビーのような場所だった。ヴィオは日頃はこのくらいで呼吸を乱すことなどないのに、くらっと目の前が暗くなり、息を荒げると男に腕を掴まれたまま前に向かって倒れこんだ。
「大丈夫か? 君はカイの従弟くんだよな? 俺、カイが君と姉さんを連れてくるの楽しみにしてたんだぜ。姉さんは来てないのか?」
男を見上げる力もないままずるずると身体が傾いでいったが、体格の良い青年がヴィオをこともなげに抱え上げた。
情けなくも抱き上げられ、顔を覗き込まれる。人のよさそうなくりくりとした茶色い目がにっこりと笑っていた。
「ああやっぱり。あの写真の子だ。大きくなったけど、顔は可愛いままだな。君は知らないだろうが、君とお姉さんの写真はここの寮じゃ前に一大ブームになったんだぜ? カイには内緒な?! こっそり焼き増しさせてもらってたのがばれたら俺がぶっ飛ばされるからさ」
「……放してください。僕急いでるんです」
「カイならさっき外に出ていったぞ? 追いかけてきたのか?」
玄関側にいた男たちもみな親切めかしてそんなことを言ってくるが、ヴィオはとにかく放してほしかったのに男は得意げにヴィオを抱えたまま降ろしてくれないのだ。
「俺さ、君の映った写真、実は今でもこっそり持ってるんだ。君の姉さんすごく綺麗だな? こんな男ばかりの寮で、ずっと俺の憧れの女性だったよ、君の姉さん。やっぱりカイと結婚するのかな? そうじゃなかったら恋人とかいないか教えて欲しいな?」
そんな風に呑気ににこにこ話しかけてこられて困惑していたら、急に周りがざわつき始めた。
「おい、テン! その子何か……。匂いが……」
「へ? ごめん。俺鼻づまり気味だから」
気のよさそうな青年は小首をかしげてそんな風に言って鼻をすするが、周りに人がどんどん集まってきて大騒ぎになった。
「君、オメガだよな?」
先ほどぶつかった熊のように大柄な男が顔を紅潮させ、興奮気にそういってヴィオの顔に向かって手を伸ばしてきた。
テンと呼ばれた青年はヴィオ抱きしめたままかばう様に一歩身を引いて身をかわす。
「すごくいい匂いだ、どうしよう、俺。興奮してきた」
若く血気盛んな若い男ばかりを集めたような場所だ。そんな風に言いながらじりじり近づいてくるものが増えて、ヴィオは恐れていたことが起きたと青ざめ小刻みに震え始めた。そもそも軍人でもアルファと違いベータは抑制剤を服用する義務もない。初めてオメガのフェロモンに接した者も多く、お祭り騒ぎのような動乱が起こってしまったのだ。
「なあ、俺にも抱かせてくれよ」
そんな風に言って迫ってくる者たちからテンはヴィオを抱き上げたままどんどん隣の棟との渡り廊下の方へ逃げるが、そちらの方からも人がわらわらと湧いて出てきた。
しかしその喧騒を打ち破る様に、まるで獣の遠吠え声のように大きく響き渡る声がした。
「ヴィオ!」
一気に場の空気がピリピリと張りつめたものに変える声。食堂側の渡り廊下の間にできた人垣の向こうからどんどん近づいてきたその人物を、皆は恐れをなして避けるようになりそこに道ができる。
ヴィオはその声の持ち主が思いのほか傍にいたことに恐れおののき、ここからでもわかるほどの威圧感にガタガタと震え始めた。
「カイ兄さん……」
手に食堂で調達してきた缶詰を入れた袋を下げたカイは、怒りに徐々に変化していく金色に染まった瞳でまるで猛獣のように周りを威圧しながら一歩一歩ヴィオと彼を抱いている青年のもとに近づいてくる。
「あ……。カイ、戻ったのか」
ヴィオを抱き上げる青年もカイのただならぬ雰囲気に圧倒され、たじろぎながら再び逆の方向へ後ずさる。
「ほら。君の従弟、なんか調子悪そうだったから抱き上げてただけで……」
そう言ってぺこぺこしながらカイに向かってヴィオを差し出そうとしてきたから、ヴィオはテンの首にしがみついて抵抗する。
「いや! カイ兄さんに渡さないで! お願い」
そんなヴィオの姿にカイは苛立ちを募らせながら低く押し殺すような声色で恫喝してきた。
「ヴィオ? また逃げ出そうとしたのか? こんなにすぐに他の男に色目を使って……。早く俺の番にしてやらないとやっぱり駄目だな」
その声色のあまりの怖ろしさにヴィオはテンにかじりつく腕をさらに強めた。
カイの放つ怒りのフェロモンに心身ともに追いつめられる心地になり、とても日頃の気丈さが出せないでいる。
「お、おい。そんないい方ったらないだろ、この子怯えてるぞ。カイ? お前ちょっとおかしいぞ?」
しかしテンが周りを見渡すと、周囲の男たちも大なり小なり様子がおかしい。顔を赤らめて部屋に逃げ帰るもの、血走った眼でこちらを見つめてくるもの。今にも飛び掛かってきそうなもの。
(俺は今、とんでもないものを抱えているんだ)
テンは初めて自分の鼻づまりに感謝したが、少年は相変わらずテンにしがみついて嫌々を繰り返している。
「ヴィオ! こっちに来るんだ」
そんなヴィオの肩に怒りに燃えたカイが腕を伸ばしたその時。
「ヴィオ!」
ずっと聞きたかった。もう二度と聞くことができないとまで思い詰めていた、低いがよく響く美しい声。
「せんせい!」
振り返ったカイが目にしたものは、寮の玄関先まで強引にバイクを走らせてきた、ジルのバイク座席から勢いよくセラフィン飛び降りたところだった。セラフィンはそのまま脱ぎ去ったヘルメットからこぼれた黒髪を翻して騒乱の最中に駆け込んできた。
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