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68 略奪編 対決2
割れた額から滴りおちる血が、カイの壮烈な顔立ちと相まってさながら敵を打ち倒す戦士のような恐るべき形相に見えた。並の男ならこの時点で失神しそうなほどの締め上げにも、セラフィンは形良い眉をぎゅっと潜めたまま反撃の機を狙いじっと耐えた。
「ヴィオは俺のものだ」
引き絞られたその言葉が直接セラフィンの耳に吹き込まれ、そのまま後ろからカイに羽交い絞めにされて揺さぶられ、首の骨が折れるかと思うほどの衝撃に舞われる。続きざま床に投げ落とされて倒れていた男たちの上に叩きつけられた。セラフィンは衝撃に呻きながら何とか受け身を取って転がると、勝負の最中に一瞬でも気を抜いてしまった自分を呪いたくなった。
ジルとテンは獰猛なカイの目が再びヴィオを捉えていると気が付いていたため、ヴィオを再び抱え上げて逃げようとしたが、ヴィオが頭を押さえながら首を振ってそれを嫌がった。フェロモンの分泌はなんとか押さえられて、頭は冴えてきたものの、ヴィオは胃腸が絞られ吐き戻したくなるほどの身体の不調を感じていた。しかしそれを気力で押して足を大地に踏ん張る様に立った。今この瞬間、ここから逃げだしたとして、結局なんの解決にもならないと感じたからだ。
そんな顔を上げてまっすぐ二人を見つめるヴィオの決意を敏感に感じ、ジルも覚悟を決めて彼の背中に力づけるように手を回す。二人は顔を見合わせると頷きあった。
「カイ兄さん、僕は、兄さんのものには絶対にならない。目を醒まして!」
ヴィオの声は少し震えていたが、精一杯の問いかけにセラフィンも冷たく埃っぽい床に手をつき身を起こし被せるように訴えかける。
「カイ、アルファとフェル族の本能にのまれるな! このままヴィオと番になってもきっと後悔する。無理やり奪い、大切な者の心も身体も傷つけたら後で辛い思いをするのはお前の方だぞ」
右側面の打ち身から伝わる痛みに顔を顰めながらも、セラフィンは何とか立ちあがり、そう一気にまくし立てると息が詰まり秀麗な顔を歪めながら髪を乱して咳き込んだ。
「先生! 」
カイからセラフィンへの苛烈な暴力にヴィオは居てもたってもいられなくなり、危険を顧みずに駆け寄ろうとしたが、流石にジルとテンが彼の二の腕をそれぞれ掴んで引き留めた。しかしそんなヴィオの姿がカイの中の爆発寸前の火種に着火してしまったらしい。
「この男がそんなに大事か?」
それは地を這う様な、恐ろしい魔物がカイの身に乗移って喋らせているかのような禍々しい声だった。
ややふらつきながら身を起こしたてのセラフィンのもとへカイは向かうと、大きな掌を広げ、セラフィンの喉元を締め上げながら持ち上げてきた。足が僅かに地面を離れるほどの信じられない力を片腕だけで発揮している。カイの瞳は再び爛々と金色の剣呑な光を帯びていた。
セラフィンとて体格的には一般人の中では恵まれた方だし、それなりに背丈も体重はある。しかしそれをものともせぬ力業は、明らかに人ならざるケモノの領域だ。流石にジルもテンも初めて目の当たりにしたフェル族の底の知れぬ能力に驚きを隠せない。
それでもセラフィンは気が遠くなりながらも眦を吊り上げ目を剥くと毅然と抵抗し、カイの腕を掴み身体を引き寄せると柔軟な身体を使って足をカイの胸につけて蹴り上げる。
腕が外れると喘鳴しながらも屈せずに美しい顔にまるで似合わぬ豪快なタックルでカイの腰元に組み付くと、身体がぶつかり合う音がさく裂しバチンと大きく響き渡る。
カイもセラフィンの身体を持ち上げんばかりに上から覆いかぶさってそれをつぶしにかかってきた。
「やめて! カイ兄さん! 先生が死んじゃう!」
端から見るとどうあってもやはり軍人で若く、フェル族のカイが上手にしか見えない。
ジルはぎりぎりの線を見極めたら、テンと共闘し背に隠し持っていた警官用の警棒を容赦なくカイに見舞おうと決めていた。
本来ならばヴィオを保護し遠くにやるのが先決なのだが、しかしそれ以上にやはりセラフィンが心配だったのだ。ジルにとっても最も愛するものを救いたい強い思いがある。彼が大怪我をするのはどうしても看過できなかった。
(今か? もう止めに入らねばセラが危ないのではないか? 他のアルファの力を借りて恋敵を打ち負かすなんて、男のプライドをずたずたにする行為でも、俺はセラが傷つくのが嫌だ。俺には一番、セラが大切なんだ)
セラフィンは潰されながらもそこから体勢を何とか立て直そうと柔術リコの動きを反芻して転がり、カイから逃れようとしている。
日頃見た目にも気を使い、優美で洗練された彼が、脇にも重たいパンチをうけ、逆に自分もごつごつ脇腹に打ち返しながら粘り強く死に物狂いで戦っている。
そんなにも必死に戦うセラフィンの姿にどうしても一歩踏み出せぬ自分にジルは戸惑い、乾き涙が自然とこぼれるほどに目を見開き、肌を粟立たせながら二人の男の死闘を見守った。
ものすごい圧力に潰されて上からマウントを取られたセラフィンが、身体の下に巻き込まれた腕を逆手に捻りながらついにカイに取られてしまった。
「うっ」
「ヴィオを俺から奪おうっていうのなら、大切な腕の一本や二本、くれてやっても構わない覚悟だよな?」
カイの目の色は元に戻っていたが、正気ではないほどの興奮に歪んだ口元から犬歯がのぞいている。制御できないほどの暴力的な衝動に見舞われているのだ。
万能にも見えるドリ派の膂力を爆発的に増幅される力は、実は制御することができるようになるには集中力と相応の訓練がいる。すぐに体得できる天才肌もいるにはいるが、早くに里を離れたカイはこの力を自在に操ることはできずに精神を完全に飲まれてしまっているのだ。
万力の力で捻り上げられた腕は骨が軋み、腱すらぶちぶちとちぎられるのではないかというように軋む。腕がどんどんと嫌な方向に曲がっていくが、セラフィンは唇を血が滲むほど嚙みしめて、意地でも声を上げなかった。
「クソ! これまでか」
ジルとテンがヴィオから腕を離し、駆け出そうとしたその動きよりさらに素早く。まるで一迅の風のように一瞬ジルの視界から消えたその人物は気が付くと残像だけを残して遥か前方にいた。まるで大きな羽が生えたような疾風のごとき、ソート派の神がかった動き。
その直後に鈍い音がして、ついにセラフィンの腕がねじ切られたのではないかとテンは叫び声をあげて目を覆った。
しかし身動きが一歩遅れたジルの目に飛び込んできたのは、先ほどセラフィンに傷つけられた額の傷から目が塞がり気味のカイの死角を正確に狙って、渾身の延髄蹴りを見舞い、そしてそのまま勢い余って反対側に転がっていくヴィオの捨て身の雄姿だった。
(一撃、必殺)
ジルの脳裏のそんな言葉が浮かんで消えた。一瞬でも遅れていたらセラフィンの腕は文字通りねじ切られ使い物にならなくなっていたかもしれない。
とっさの判断にジルは後れを取った。ヴィオは少しも迷わなかった。
隣りでテンが興奮と衝撃から大きな声で喚き、悲鳴を上げているのをジルはどこか遠くの出来事のように感じたまま内省していた。
(俺としたことが……。完敗だな)
ドサッと音を立ててカイが潰れるように倒れ伏し、腕を掴まれたままだったセラフィンも巻き込まれてカイの下敷きになる。
ヴィオは身体中悲鳴を上げるほどの不調をものともせずに、金色に耀く瞳をしたまま死に物狂いでがばりと起き上がると、獣のように床を四つん這いになって愛する者に駆け寄ってきた。そしてカイの重たい身体の下からセラフィンの腕を引っ張り出してすぐさま彼の首に腕を回すと必死に抱き着いたのだ。
「先生、腕! 僕の大切な先生の腕!」
ヴィオは一度顔を上げ、セラフィンに覆いかぶさるような姿勢で彼を気づかわし気に覗き込んでくる。ヴィオの瞳の色はすっと波が引くように元の穏やかな紫色を取り戻していった。ぼろぼろと大粒の涙が雨粒のようにセラフィンの顔にぽたぽたと熱い雫となって落ちる。
「大切なのは腕だけかい?」
そう冗談めかしながらも本当はどこか確実に骨が折れているのかもしくはヒビが入っていると感じながら、セラフィンはやせ我慢しヴィオに微笑み返した。
「俺はヴィオの丸ごとすべてを愛しているよ」
その言葉にさらなる涙が滝のように流れ落ちてヴィオの少しやつれた顔がさらにぐしゃぐしゃにみっともなくなったが、セラフィンにはそのすべてが愛おしくてたまらなかった。
「うーうん。僕も先生の全部がいい。全部好き。先生が大好き。もうずっと、一緒がいい」
「俺もだ。もう離れないでくれ。今のままの君でも、俺にはこの世で一番大切な子なんだよ。このままずっと、俺の傍にいて欲しい」
「い、いる。ずっと一緒にいるぅ」
セラフィンは流石に倦怠感を感じて床に寝転がったまま、それでも抱き着いてくるヴィオの熱い身体に左腕を回して精一杯強く抱きしめると、彼はわんわん大声を上げて子どものように泣きじゃくった。
伝わるヴィオの温もりを感じながら目の端には複雑な表情を宿したジルが近寄ってくる。
彼の少し呆れたようにも見える顔が見下ろしてくるのと目が合うと、いつか二人でよくしていた下らない仮想の話の記憶がふいに蘇ってきた。
『フェル族最強の戦士と素手で争うだって? そんなもの普通の人間には無理無理。熊を素手で倒すようなものだろ? でもさあ。先生はどうして一人で倒そうとするの? 頭が固いんだよ。誰が決めたんだよ、一人で戦えって。誰かと共闘するか、もしくは欲しいものがこっち側にきて加勢してくれたらきっと勝てるんじゃないか?』
セラフィンはそんなの卑怯だろうと反論したし、ジルは何恰好をつけているんだ、そんなんじゃ勝てないだろうと応酬した。
(でも結局、あの時お前が言ったとおりになったな)
愛する者が自分を選んでくれるということを、セラフィンは初めて経験した。そして共に戦い見守ってくれる人を得ることもできた。
何かを成し遂げるために自分の力だけではどうしようもないことがあったとして、諦めるか逃げるかばかりだった人生の周り道も、今ここにたどり着く為必要な迂回だったのだとしたら。
(人生において無駄なことなど何もないのかもしれないな……)
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