0人が本棚に入れています
本棚に追加
彼がその女児型アンドロイドを連れて帰った日は妻の誕生日だった。彼女は歓喜ではなく驚きのために短い悲鳴を上げた。
「どこにそんなお金があったの?」
彼女が疑わしげに訊ねると、彼は笑って答えた。
「へそくりだよ」
そのアンドロイドは、七歳程度の女の子の形をしていた。髪色は妻と同じで、普段は真っ黒に見えるのだが、光が当たると焦げ茶色に見えた。瞳はダークブラウンで、黒目がちだ。鼻は高くないがほっそりしていた。従順なアンドロイドらしく、彼らが彼女を挟んでソファに座り、話しかけるまでは一言も発しなかった。
「何を言えばいいのかしら。名前は何なの?」
「いや、知らないんだ。中古で買ったから……」
「違うわ、製品名じゃなくて、この子の名前」
夫は肩をすくめた。すると、今まで黙っていたアンドロイドが、妻の華奢な小指くらいしかない小さな口を開いた。
「アグネス」
二人は顔を見合わせた。
「前のデータがリセットされてないのかしら」
人型アンドロイドに不慣れな彼女は、恐る恐る少女の顔をのぞき込んだ。アンドロイドは反射的に彼女を見つめ返した。どのような仕組みになっているのだろう? アグネスの目は人間の目のように潤んでいて、数秒おきに瞬きもした。見た目にも膚はもっちりとして、頬はまだ下の方が赤ん坊のようにふっくらしていた。彼女はもう長い間お目にかかったことのない、本物の子供そっくりだと感心した。なるほど、ロングセラーになるわけだわ。人はみんな子供に飢えている。
「説明書はないの?」
「残念ながら。破格だったから仕方ないね」
「アンドロイドなんて使ったことないからわからないわ」
「どれ、簡単さ、ほら」
彼はアグネスの小さな身体を抱えて彼の膝に座らせた。
「なあ、君は何が出来る?」
「おはなし」
幼い舌足らずな声が夫妻の気持ちを和ませた。もう何年になるだろう? この愛らしい声を現実で最後に聞いてから! 彼らの知り合いにアンドロイドを買えるほど裕福な人間はいなかった。テレビドラマや映画に出演している子役のアンドロイドは、マイクを通すせいなのか、限りなく幼子に近い声でありながらも心なしか固く、違和感があった。しかし、アグネスは完璧だ。妻は前屈みになって、アグネスの髪の生え際のあたりに鼻を押しつけた。甘いミルクのような子供の皮膚の香りがした。
「完璧だわ」
彼女は顔を上げると、夫に言った。
「他に何が出来るの?」
「絵が描けるわ」
「ダンスは?」
「あんまり得意じゃないの」
二人はひとしきり、出来ることを訊ねた。お風呂には? 食事は? 着替えは出来る? アグネスはどの質問にもイエスと答えた。
「充電とかはどうすればいいのかしら……」
「それは僕がするさ。君は本当の子供だと思って接すればいいよ。そのためのアンドロイドなんだ」
その夜、彼らは三人で夫妻の大きなベッドで寝た。眠ったアンドロイドは寝息を立てていた。妻がアンドロイドの柔らかい胸に耳を当てると、心臓の音が聞こえるような気がした。
その妙な男が彼らの家のあたりをうろついていたのは、アグネスが来てから二日目のことだった。その男は明らかに貧困層の人間で、薄汚かった。男はひどく老けていた。顔はよく見えなかった。猫背で、前のめりになりながら大股で、頭を激しく振って辺りを見渡しながら歩き回っていた。
「ねえ、あれ」
最初に男に気付いたのは妻だった。彼女はリビングでコーヒーを飲んでいた夫を振り返って言った。彼はコーヒーカップを片手に、キッチンの横の、庭に向いた窓の方へやってきた。アグネスは彼の座っていた隣で折り紙をしていた。
「警察を呼んだ方がいいかしら」
「いや」
彼は頭を振った。
「僕が見てくるよ。君は危ないから、アグネスと一緒に寝室で待ってて」
彼はコーヒーカップを流し台に置くと、コートを掴んで出て行った。妻はアグネスを抱きかかえて寝室へ向かった。
「どこ行くの?」
アグネスは妻の腕の中で、首をねじって、テーブルの折り紙をじっと見つめている。
「お昼寝しましょう」
三十分ほどしれ、そろそろ様子を見に行こうかと思案し出したころ、玄関の開く音がして、彼女は寝室から顔をのぞかせた。玄関から夫が大股で歩いてくるのが見えた。
「アグネスは?」
彼はコートを着ておらず、額が汗でうっすらと汗でぬれていた。息切れで、荒い呼吸だったが、口元には笑みがあった。
「ちょっと脅したら逃げたよ」
「ずいぶん遅かったのね」
「心配だから、あたりを見てきたんだ。走ってね」
「一応通報したほうがいいかしら」
そう言って、すでにパネルを操作し始めていた妻の手を、彼は掴んで首を横に振った。
「大丈夫さ。もう来ないよ」
男は二度と現れなかったが、妻は数日の間外に出るのを嫌がった。一週間ほど経って、やっと彼女は三人で買い物へ行くことを承諾した。
「アグネスをおいては行けないわ」
彼がふたりで出かけるのを提案したとき、彼女は言った。
「盗まれるかもしれないじゃない」
近所のスーパーまでは歩いても十分ほどで着くのだが、彼らは車で向かった。全国チェーンの大きなスーパーで、食料品の他にも衣類や日用品が売られており、薬局も併設されているので、大抵の買い物はここで済んでしまう。彼らはまず衣類コーナーへ向かった。そこにはほんの少しだけ、子供型アンドロイド向けの洋服が売ってあった。
アグネスを連れての外出ははじめてだった。彼女は幼い子供の手をひいて歩くのが誇らしく、ここ数日間の不安を忘れ去っていた。子供型アンドロイドなど目にしたことのない人間ばかりの店内で、彼女は目立った。ときには興奮ぎみに声をかけてくる者もおり、彼女は気前よく子供を抱かせてやったりした。夫はその後ろをカートを押してついて回った。
小さな機械の子供は、はじめのうちは見慣れない場所に身を固くしていたが、慣れてくると好奇心が芽生えだしたように、母親の手を離れてあたりを冒険しだした。母親はアンドロイドなのだし、持ち主から離れていったりはしないであろうと安心しきって好きにさせておいた。
服の種類は男女あわせても二十種類ほどしかなく、そのなかにいくらか混じっているアニメキャラクターの絵のついたものなどは、ずっと昔のものだった。彼女はピンクや黄色といった華やかな色合いのワンピースを吟味するのに夢中で、アグネスが並んでかけられた服の下をくぐり抜けて遠ざかっていくのに気付かなかった。ついに気に入る一着、上半身がクリーム色で、切り替え部分から下が黒く、裾と袖に控えめなフリルのついたワンピースを見つけ、アグネスの名前を呼んで振り返ったとき、そこに小さな子供の姿はなかった。
「アグネス?」
彼女は、服の間にでも紛れて遊んでいるのだろうと思い、微笑みながらやさしく名前を詠んだが、返事はなかった。胸が締め付けられて息苦しくなるような不安を覚えて、彼女は夫の名前を呼んだ。返事はなく、カートを押していたはずの夫の姿もなかった。つまらなくなって、夫とふたりでどこかをぶらついているのかもしれない。彼女はそう思って安心しようと努めた。しかし、彼女が遠目に夫のシルエットを認め、手を振ったとき、彼のそばに子供の姿は見受けられなかった。
「アグネスは?」
彼女は再び不安になって訊いた。
「知らないよ。君といたんだろ?」
「あなた、どこに行ってたのよ。私てっきり」
彼女は手に持っていたワンピースを激しく振った。
「トイレだよ」
彼は頭でうしろのトイレのマークを示して言った。
「君に言ったけど、聞いてなかったんだろ」
「とにかく探さなくちゃ」
「どこかに隠れてるんじゃないか?」
「どこに? 子供型アンドロイドっていったって、そんな面倒な機能までついてるの? 信じられない……」
彼女はワンピースをカートに放り込んで歩き出した。夫はそれをもとのハンガーラックに戻すと、彼女のあとをカートを押してついて行った。
彼らはまず、決して広くはない衣料品コーナーをくまなく探したが、アグネスの姿は見当たらなかった。次に、すぐ隣の日用品売り場と薬局を見て回り、それから広い食料品コーナーに入った。
「これじゃ埒が明かないわね」
「でも、子供がいたら目立つだろう。見つかるよ」
たしかに、このスーパー内で生身であれアンドロイドであれ、子供はアグネスくらいであろう。生きた子供は貧民窟でしか見られないだろうし、アンドロイドを買えるような富裕層はこんなスーパーにはこない。
「サービスカウンターに問い合わせましょう。警察にも連絡したほうがいいかしら?」
彼女は早足で歩きつづけながら言った。
「そう騒ぎ立てることはないよ。店の人間にとりあえず訊こう」
サービスカウンターは、無数にあるレジの一番端にあった。簡素なつくりのカウンターの向こうには、制服に身を包んだ女性がひたり、微笑みを浮かべて立っていた。
「ごめんなさい」
妻はカウンターに肘をつき、身を乗り出して言った。
「なんでしょう?」
係員はにこやかに訊ねた。その穏やかさに、彼女は無性に腹が立ったが、同じく穏やかに答えるように努めた。
「うちの、アンドロイドの子供が、迷子になって」
「アンドロイドがですか?」
「ええ」
彼女は肘をついたまま、頭を抱えて、参ったという風に首を振った。
「そうなの。届けとかきてない?」
「申し訳ございません。そういった落とし物はお預かりしておりません」
「どうにかして探せないの?」
彼女はつい、語気を強めて早口で詰った。
「放送をすることはできます。ですが、いくら子供型とはえ、アンドロイドが自ら持ち主のそばを離れるとは考えられませんので、盗難の可能性もあります。あまり期待はなさらないほうがいいかと」
係員は終始微笑んで言った。彼女がマイクなしに、少し喉元を触っただけで館内放送向けに声の出力が変わったのを見て、妻は初めてこの係員もアンドロイドなのだと気付いた。
結局、彼らの子供は見つからなかった。妻は夫が制止するのを聞かずに警察に通報したが、形式的な質問をされ、書類を書かされただけで、「期待はしないほうがいい」とあの係員のアンドロイドと同じようなことっを告げられて帰された。彼らはスーパーで何も購入せず、行きよりも少ない荷物を乗せて帰る羽目になった。車内で彼らは一言も交わさなかった。妻は、夫が全く平静で、アンドロイドのことを気にもかけていないどころか、彼らの被った金銭的な損害すら問題視していないことにひどく腹を立てていた。そういえば、あのアンドロイドは結局いくらだったのだろう? 彼は警察に提出した書類に値段も書いていたはずだが、彼女はそれを見なかったのだ。
「きっと見つかるよ」
無言のまま家に帰り着き、玄関の扉を開けたとき、夫が言った。その気休めに、彼女はさらに憤慨し、間抜けな薄ら笑いを浮かべる夫をにらみつけると、何も言わず寝室に閉じこもってしまった。
次の日には、彼女は怒りも収まって、いくぶん冷静に考えられるようになっていた。すると。自分が目を離していたのが悪というのに、夫や係員に腹を立て、当たってしまったことが無性に恥ずかしくなった。それにしょせん機械なのだ。自分のほんとうの子供ではない。買ったのだって自分ではなく夫だし、それも彼が彼女の誕生日のために貯めておいてくれたお金だったのだ。そう思うと、夫のあの態度は、立派で寛大なものだったと言えるだろう。彼女は朝食を作っているあいだに、彼女の心は固まった。夫が起きてきたら、昨日のことを謝ろう。
寝室から出てきた彼は、妻が彼に向かって微笑んだのを見ると、笑みを返した。彼女は、このひとはなんていい夫なのかしらと思い、優越と幸福を感じながら、愛情をこめて彼にキスをした。
「昨日はごめんなさい」
彼は笑みを深め、「いいんだ」と返した。
「僕も悪かった」
約十日ぶりのふたりきりの朝食は、十日前と変わらずありふれたもので、アグネスのいた期間が短かったために、妻さえもあまり寂しいとは思わなかった。
「疲れてるだろうから、今日は僕が夕飯を作るよ。もうメニューは決めてるんだ。昨日君が寝ちゃってから、どうすれば君を元気づけられるか考えてたんだ」
「まあ」
彼女は頬を染めて、上機嫌に笑った。
「何にするの?」
「君の好物のラム肉だよ」
最初のコメントを投稿しよう!