第3曲【Serenade】♭Opus10 ♦︎

5/5
211人が本棚に入れています
本棚に追加
/182ページ
    朝起きたら、弟から連絡が入っていた。昨日はごめん、と。  俺は返信もせずにそのメッセージを消去した。  このやりとりを、俺たちは一体何度繰り返すのだろう。  おそらく何度でも繰り返すのだろう。死ぬまで、ずっと。  仮に俺がまた逃げ出しても弟はめげずに探すだろう。その警察犬並みに鋭い嗅覚で嗅ぎつけてくるんだ。こればかりはあいつと俺のことだ、占い師なんかよりもよっぽど当たる。十二年間、伊達にあいつの兄をしていなかったのだ。  俺は着替えて翔の家を出て、自分の家へと向かった。朝焼けの薄明るい街並みを歩く間は、一日のうちで一番好きな時間かもしれない。新聞を配るバイクの音、トラックの音、さわさわと揺れる街路樹の音。  整備された橋の上で、豊かに流れる川の水面を、頬杖をついて眺めていた。川の水は黒ずんで汚いから、飛び込んだらきっと臭くて死ぬのが嫌になるのだろう。もし身体を手放す時が来るならば、せめてもう少しマシなところでお願いしたいものだ。  そんな他愛もないことをぼんやり考えながら、黄昏れて、再び歩き出そうとした時だった。 「…ッ‼︎」  息ができなかった。両目が橋の上に現れた黒ずくめの人物を捉えると、まるで金縛りにあったように地面に縫いつけられて動けなくなった。  黒ずくめのソイツは、こちらに気づくとニンマリと(わら)った。見覚えのある、いや、それどころではない。その軽薄そうな顔も、薄い唇も、濁りのある瞳も、(とが)った鼻も、貧相なその体型も、何もかももうこりごり(・・・・)なほど(・・・)見ていた(・・・・)。 「ああ、こんなところで()うとはなぁ」  どす黒い笑みを浮かべたまま、相手はゆったりとした歩調で近づいてくる。 (嫌だ、嫌だ、嫌だ……!)  目の前に迫ってきても俺の脚は震えるだけで使い物にならない。  冷や汗をかいて、心臓の動きが速くなる。 「一体今までどこに行っていたんだい? いけない子だねぇ…、お仕置きしなくちゃねぇ」  俺が硬直しているのをいいことに、奴はわざとらしく寂しそうな笑顔を作り、俺の顎をくい、と持ち上げた。 「…キミがいない間、私は寂しかったんだよ? キミもそうだろう…? ずっと独りだったもんねぇ……想い人とも逢えずにねぇ……」  奴はフッと俺の顔に息を吹きかけてきた。相変わらずヤニカスの臭いがした。  ……すべての発端はコイツだ、コイツが元凶なのだ。  目を瞑りながら、死んでしまえと心の中で呪文のように何度も何度も念じる。しかし、おぞましい男が消えないのは変わらないし、俺が逃げられないのも変わりない。 「…貴様、何しに、来た…、」 「おやおや、再会して第一声がこれかい? ボクは悲しいなぁ…キミのことをずっと探していたというのに。…それに、この私に向かってそんな口を利いていいのかい?」  奴は捕食する蛇のように俺の唇を奪った。  悪夢が蘇る。過去と今が混同して、目が回りそうになる。 「…っや、…めろッ…‼︎」  もがいて無理矢理引き剥がす。奴の掛けていた色付き眼鏡が、レンガ造りの地面に跳ね飛んだ。 「…ふ、ははははッ! おやおや、どうやら、抵抗するだけの元気は取り戻してきたようだね」  奴は腹を抱えて笑い出した。こちらは気が張り詰めていて熱まで出そうだというのに、已然として神経を逆撫でするような引き笑いを続けている。 「…そうか、そうか、そこまで元気になったか。前は抵抗すらしなかったもんね。キミのあのデータ、まだ残ってるからねぇ」 「ふ…ざけるなっ‼︎」 「おやおや、ふざけてなんかいないよ。キミの将来に(かかわ)ることだからねぇ…それに」  奴は胸ポケットからおもむろにスマートフォンを取り出し、楽しげに操作した後、画面を俺の前に突きつけた。   「…あの子がこれを見たら何と言うだろうねぇ…?」  俺は唾をゴクリと飲み込んだ。  そこにはこの世で最も見たくないものが映っていた。 「耀…耀!」  背後で叫び声がした。目の前の奴は、チッと舌打ちし、俺の肩越しを睨んだ。 「…邪魔が入ったか」 「オイ耀、大丈夫かっ、」  声の主は翔だった。翔は俺を背後から抱きしめ、黒ずくめの男に牙を剥いた。 「おい、お前、耀に何してる⁉︎」 「…何もしてないさ。…それでは邪魔者は帰るとしようか」  男は不敵にニタニタと笑いながら、身を翻した。そして振り向きざまに薄汚い口がこう言った。  ──六月の演奏会、楽しみにしているよ…。  せいぜい頑張るがいい、と上機嫌で去っていった。
/182ページ

最初のコメントを投稿しよう!