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先生の言葉に、ハッと息を呑んだ。僕が弟だから言えないなんて…どういうことだろう? ますます、謎が深まるばかりだ。
「…どういうことですか?」
「詳しくは話せないが、一つだけ伝えておこう。君のお兄さんは、君が思う以上に君を大切に想っている。それは昔も今も変わらない」
「…え?」
「…まぁ彼の場合は少し空回りしているところもあるがな。だから聖君、これからどんなことが起こっても、それだけは忘れてはならないよ」
「ど、どういうことですか…」
「そのままの意味だ。彼には君がいないと駄目なんだよ」
あたかも間接的に告白をされているようで顔が熱くなった。何だろう、このむず痒さは。
それならなぜ、彼は酷い態度を取るのだろう? もっと普通に接してくれてもいいのに。大切に想っているのなら、鳩尾に肘鉄を喰らわせたり、グーで殴ったりしないだろう。
「…おやおや、赤くなって、君もか。まったくしょうがないねぇ」
「…校長先生」
「うん?」
「僕のことをからかっているんですか…っ」
「滅相もない。事実だよ」
「なら、教えてください、耀のことを。聞くまで帰りません」
僕は校長先生の机に詰め寄った。知りたくてたまらないのに、話を逸らされ続けてもう我慢ならない。
「校長先生…っ」
僕が必死に問いかけているにも拘らず、先生は少しも表情を変えずに止水のような落ち着きを保っていた。重い瞬きは何かを語りたげにも見えたけれど、そこに潜む真意を探し出すことはできなかった。
「……聖君、」
「……」
「すまないが、私には守らなくちゃならない秘密があるんだよ」
「どうして…っ!」
「それは、耀の意思でもあるからだ」
耀の顔が眼前をふと横切った。悲しくなるほど厳しい目つきで僕を睨む、その顔が。
急に鼓動が速くなった。
「…耀、の…?」
「そうだ。彼の過去は、彼自身から聞くべきだ。私が話せば、彼を裏切ってしまうことになる」
「ですが…っ!」
「それに、彼はね、自分の過去を君には聞かれたくないんだよ。少なくとも今はね。……ただ私はね、彼の気持ちを理解する一方で、このままでは駄目だとも思うんだ。彼は今完全に心を閉ざしてしまっていて、感情をどこかに置き忘れてしまったようだ。音楽すらも心を震わせるものではなくなりつつある。君も聞いたら分かるだろう、た《・》だ指が《・》動い《・》ているだけということを」
僕は校長先生の言葉に息を呑んだ。言われてみれば確かに思い当たる節がある。少し前に耀が一人で練習をしていた時も、サラリとしていて味気がないと思った。
「…確かにあの子はテクニックだけならそこらのプロより遥かに上だ。表現をする技能だって持っている。本当の彼は凄まじいんだ。だがね、心から溢れ出すパッションはまるで失われてしまった。彼の今の演奏は、上辺を形にしただけで、何も面白みがないんだよ」
校長先生は俯いて、悔しそうに、焦るように、組んだ手で自身の額を打ちつけた。その指は小刻みに揺れていた。
「…本来なら鬼才と呼ばれるほどの逸材なのに…っ!」
押し殺すような声だった。僕は唖然として校長先生の動向に見入ってしまった。
「先生…」
「私もいろいろ試行錯誤をしてきたよ。ただ、私はあくまで師で、他人なんだ。保護者という立場で彼からは過去のことを聞いたが、だからといって彼の痛みが分かるわけじゃない。……彼を本当の意味で救うことはできなかった。だから、彼はよっぽどのことがない限り心を開くことはないんだと知っている」
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