恵の話

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 ステンドグラス風のシートを貼っている窓から外の様子はぼんやりとしか見えず、入ってくる陽光もない。なぜなら、細い道の向こうにはマンションが建っていて、日を遮ってしまうからだ。窓際の席はそんなふうになっている。  店はあまり広くない。窓のある壁に沿って並んだテーブル席と、カウンターしかない。窓際でないテーブル席は一つしかなく、それは窓際の席に縦に連なる席の一つで、一番奥の席になる。そこだけは窓がない。カウンターとテーブル席の間の道はあまり広くない。カウンターは一番奥のテーブル席の手前で途切れて、その向こうにはお手洗いがある。つまり、一番奥のテーブル席は、細い道を挟んでお手洗いと向かい合わせになっている。  恵のお父さんは、カウンター席には座らない。お父さんのような常連さんの多くはカウンター席に座るらしいけれど、お父さんは違う。それは恵がいるからでもない。  カウンターの向こうには、お父さんより十歳ほど年上のおばさんがいる。おばさんは燿子さんと呼ばれている。燿子さんはこの店のオーナーの娘である。愛想がよく、目が合えば必ず微笑んでくれるけど、ひとりで俯いて作業をしているときは怖い顔をしている。パーツのひとつひとつが大きく派手な美人である。赤や紫の派手な服をいつも着ているが、黒いエプロンでほとんど見えない。常連のお客さんたちがカウンター席に座るのは、燿子さんと話をするためだ。  燿子さんはたまにお母さんを連れている。痴呆が入っている。お母さんが燿子さんに何か尋ねたり、言いつけたりすると、燿子さんは小さいが明らかに苛立った声で返事をする。するとお母さんは大きな声でそれを非難する。  常連のお客さんはそんなこと気にしない。よくあることだからだ。でも恵はそれがあまり好きではなかった。  お父さんは注文するとき以外はいつも黙って新聞を読んでいる。 「佐伯さん、いつもの?」  と燿子さんがきくと、「はい」と答える。それだけだ。お父さんは注文をする間も、新聞を見つめている。  燿子さんはそれから恵に微笑みかけて訊ねる。 「恵ちゃんは、今日はなににする?」  恵の注文はその時々で違うからだ。 「ホットケーキとココアをください」  恵は丁寧に言う。 「はい、わかりました」  燿子さんの声は快活だ。  お父さんと恵はこの喫茶店に毎週日曜日にくる。平日は、お父さんひとりで仕事帰りにコーヒーを飲みにくる。  お父さんは石鹸工場で働いている。去年一年間はベトナムの工場に監督として出張していた。そこから引き上げてきて、もともと務めていた工場とは違う工場で働いている。  恵はお父さんと喫茶店にくる日曜日が大好きだった。お父さんは平日帰ってきてご飯を食べると、そのままお風呂に入って眠ってしまう。工場の朝は早い。土曜日も昼過ぎまで仕事である。お父さんは休みの日曜日も朝早くに起きている。体に染み付いているのだろう。そうして、恵が起きてくるのを待っている。  恵が起きてきて、顔を洗って、着替えをすると、リビングに座って本を読んでいたお父さんは「いくか」と本に視線を落としたまま言う。 「うん」  恵が答えるとやっと本を閉じて、それをテーブルの上に置いたまま立ち上がる。 「いってきます」  お母さんはいつも、日曜の朝はソファに座ってテレビを見ているけれど、恵が声をかけると振り返って笑顔で「いってらっしゃい」と返してくれる。  お父さんと喫茶店に行く日、恵はお母さんが毎年誕生日に買ってくれるワンピースを着ていく。一年のあいだにそのワンピースはココアやシロップやアイスクリームで汚れてしまう。洗っても取れないシミが、ワンピースの襟や袖や裾についている。お母さんはそれを着て行くのを快く思っていない。冬の間はカーディガンやコートで隠れてくれるけれど、夏場は半袖のそのワンピース一枚になるので、汚れがよく見える。喫茶店から帰ってくると、お母さんは服を着替えるように恵に言いつける。 「はい、ホットケーキとココアです」  この店のホットケーキは薄くて小さいが、綺麗な丸い形をしている。ほんとうなら三枚なのだが、小さな恵には多すぎるので二枚しかない。そのかわり、セットのドリンクの値段でなんでも選ばせてくれた。恵はもちろん、そんなことは知らない。お父さんと燿子さんの間での取り決めである。 「ありがとう」  恵がはにかんで言うと、燿子さんは笑みを深める。にっと口角をさらに上げて、すこしわざとらしい笑みになる。 「はい、ブレンドとモーニングです」  お父さんの「いつもの」はバタートースト、茹で卵、サラダ、フルーツのモーニングプレートとコーヒーのセットのことである。 「どうも」  お父さんはここでやっと新聞を置いて、礼を言う。  お父さんはコーヒーに砂糖を入れないが、トーストには砂糖をかける。  お父さんが切り分けるために恵のホットケーキの皿を持ち上げるころには、燿子さんはすでにカウンターの中に引っ込んでいる。  お父さんはナイフとフォークを使って恵のためにホットケーキを切り分ける。ナイフは普通の大きなものだが、フォークは恵のために小さなものなので、すこしおかしい。恵はホットケーキが大好きで、月に一度は食べるので、そのたびにお父さんはホットケーキをこうして切り分けてやる。  恵もお父さんもゆっくりと時間をかけて遅めの朝食を平らげる。恵はまだ食べるのが下手で、そのうえ気が散りやすく、すぐに手を止めてあちこちへ視線を遊ばせるからだ。お父さんは食べる時は新聞を折りたたみソファに置いて、行儀よく食べるが、ひとくちひとくちが小さく、動きが緩慢で、よく噛んで食べるので、ゆっくりになる。  それに対して、いま家でもしかしたら同じように朝食を摂っているかもしれないお母さんは、食べるのがとても早い。お母さんは燿子さんのようにきびきびと動き、食べる時もそれは変わらない。お父さんがコロッケを一口かじって咀嚼している間に、お母さんはコロッケ一つを平らげてしまう。お母さんは食べ終わると、せっせと食器をシンクに持っていき、二人に言う。 「早く食べちゃってね」  恵がフォークを握ったまま宙空を見つめていたり、スプーンでスープを掬ってその輝くような鳶色の水面を見つめていると、行儀が悪いからやめなさい、と叱る。お父さんはそんなことで叱ったことは一度もない。 「ぽけっとした子なのよ」  お母さんはよく、親戚や恵の友達のお母さんに向かって苦笑して言った。  それでもお母さんは、恵が描いた絵を褒めてくれるし、時間がある時は恵の話を辛抱強く聞いてくれた。優しい時のお母さんと怒っている時のお母さんはまるで別人なので、恵にはすぐわかる。お母さんが怒っていると、空気がピリピリとしている。お母さんが怒っていると見て取ると、恵はできるだけお母さんの視界に入らないようにする。お父さんはお母さんが怒っていても知らない顔をして本や新聞を読んでいる。お母さんはそれが我慢ならない。  一度、あまりにも無関心なその態度にしびれを切らしたお母さんが、聞きれとないほど鋭い声で何か叫んで、手に持っていたタオルを床に叩きつけ、家を出て行ってしまったことがあった。その時、恵はお父さんとカレーを食べていた。恵はお母さんが出て行った扉を見つめて、それからお父さんに視線を向けた。お父さんは素知らぬ顔でカレーを食べていた。決して恵を見ることはなかった。  恵はお父さんが切り分けた、メープルシロップの染み込んだホットケーキをフォークで刺して口に運ぶ。咀嚼し、フォークを握ったまま店内を見渡す。燿子さんと目が合う。燿子さんはにっこりと微笑む。恵もはにかんだ笑みを返す。  ココアがはいったコップは子供用のプラスチックのもので、何年か前に放送していた魔法少女の絵が描かれている。恵はその魔法少女を知らない。恵が見ているのは一番新しい魔法少女のアニメで、その主人公はハートの石のついたステッキを持っているが、コップに描かれているのはダイヤの石のステッキだ。  恵は今年のクリスマスに、そのステッキをもらうことになっている。  恵の部屋には一つ前の作品のコンパクトもあるが、それはもはや顧みられないで、玩具箱の底の方に放置されている。ときどき、友達やいとこが遊びにきた時に、玩具箱をひっくり返すと、そのコンパクトはやっと日の目を見ることができて、運が良ければ、お化粧道具としておままごとに使われたりする。  ココアを一口飲んで、茶色の髭を唇のふちに作る。それからまた一口ホットケーキを食べる。  気持ちのいい鐘の音が来客を告げる。燿子さんはよく通る声で「いらっしゃいませ」と声をかけて立ち上がった。それから大きな口で笑って、「あら、小西さん、おひしぶりね」とおおげさなほど喜色たっぷりの声で言った。  小西さんはカウンターの席に向かう途中にお父さんと恵を視界にいれて、「おはよう、恵ちゃん」と恵に声をかけ、お父さんには軽く会釈をした。お父さんも会釈を返す。  小西さんはモーニングとブレンドコーヒーを頼んで、燿子さんと話し込んでいる。燿子さんの声はよく響くので、ふたりの会話は恵達の耳にも突然入るが、恵はその半分も理解できない。  それからまたすぐに、別の客が入ってきた。老年にさしかかる年齢の女性の二人組だ。燿子さんのように大きな声で、そのうえ少し濁声なので、耳に障る。お父さんは扉の方に一瞬視線を向けて、それからまた俯いて食べ続ける。  客が増えてきたので、ふたりは食べ終わるとすぐに席を立った。 「1,200円です」  お父さんが財布からお金を出している間に、燿子さんは蹲み込んで竹編みの小さい籠を恵に差し出す。 「はい、好きな味選んでね」  そこには包装されたキャンディがいくつか入っている。恵が店を訪れるたび、燿子さんはひとつキャンディをくれた。  恵は決まってグレープ味を選んだ。しかし、子供の気まぐれは分からないものなので、燿子さんは必ず恵に選ばせることにしている。 「ありがとう」  店を出て、深く幅も広い高めの柵のついた溝の脇をふたりは手を繋いで歩く。溝の向こうには池がある。道路を挟んで反対側の稲刈りを終えた田んぼでは、小鳥の群れが翻り、翻り、舞を舞っている。  お父さんは煙草を吸っている。お母さんは煙草が嫌いなので、家にいる時はベランダでしか吸えない。そうやって遠慮して吸ったとしても、室内に入ってきた途端、お父さんにまとわりついた煙たい匂いにお母さんは必ず眉をしかめる。  友達の家の前を通り過ぎて、その隣の神社の前までくると、階段を登った先の境内から子供の声が聞こえてきた。お父さんは声の方へ視線を向けて、恵の友達を見つけたが、恵には言わなかった。  恵の住んでいる団地にたどり着いた。恵の住んでいる棟と、向かいの棟の間は広場になっていて、それぞれの棟の一階は店が並んでいるので、小さな商店街のようになっている。お父さんは広場で立ち止まり、恵に先に部屋へ帰るように告げた。お父さんはよく、そこに並ぶ商店のひとつで煙草を買う。  恵は頷いて部屋へ向かう。団地の左手の階段は、ポストの真横にある。その向こう、ベランダのある方はしたが砂利になっていて、柵があり、柵の向こうは公園だ。隅の方に葉っぱやよくわからないものが溜まって黒っぽくなったコンクリートの階段に恵は足をかけ、砂利のほうを見ないように駆け上がっていく。この棟の二階に住んでいる小学生のお姉さんが教えてくれた話を思い出したからだ。お姉さんは理恵ちゃんと言って、恵が来年から通うことになっている小学校の四年生だった。 「私、一人でキッチンで宿題してたの」  広場にあるベンチに座って、理恵ちゃんは声をひそめて言った。理恵ちゃんの右手にはピンク色の縄跳びがある。恵も縄跳びを持って、理恵ちゃんに向かい合って立っている。恵の縄跳びは持ち手を結んだだけの黄色い縄で、ピンクと青のリボンが端の方に結んである。このリボンはそれぞれ「前飛び十回」「後ろ飛び十回」を達成した勲章であり、いま恵は理恵ちゃんに交差飛びを教えてもらっているところだった。交差飛びを教えてもらっていたはずが、二重飛びなど恵には到底できない技を得意げに披露した理恵ちゃんは、「疲れちゃった」と言ってベンチに座り込み、「そういえば、恵ちゃんお化け見たことある?」といたずらっぽく話し始めたのだった。 「そしたらね、窓の方から、足音がするの。じゃりじゃりってね。ほら、ベランダの下って、砂利になってるでしょ? それでね、私怖かったんだけど、誰か歩いてるのかなと思って、見に行ったの。でもね、誰もいないの」  恵は、その話のどこがおかしいのか分からなかった。恵が怖がっていないのを見てとった理恵ちゃんは、低い声で続けた。 「それでね、気のせいかなと思って、また宿題をはじめたわけ。でもそしたら、また聞こえてくるの。絶対、人の足音。でもさっきは誰もいなかったんだよ? あんなところ、普通は誰も歩かないし」  誰もいないはずなのに、足音が聞こえる。なるほど、確かにそれはおかしな話なのかもしれない。でも恵を怖がらすには、まだ少し足りなかった。理恵ちゃんは、恵から目を逸らして、砂利のほうをちらっと見た。恵もそちらへ視線を向け、何もないのを確認し、また理恵ちゃんに視線を向ける。すると、理恵ちゃんは怖い顔をして恵を見ていた。 「その話をね、お母さんにしたの。お母さんも、足音を聞いたことあるんだって。しかもね」  理恵ちゃんはそこで言葉を切った。じっとふたりは見つめ合う。恵はなんだか怖くなってきて、理恵ちゃんの手に小さな自分の手を置いた。すると、理恵ちゃんは突然その手を強く握りしめたので、恵は驚いて手を振り払おうとしたが、恵の力では無理だった。 「お母さんはね、見ちゃったの。髪が長くて、白い服を着た女の人がね、裸足で砂利の上を歩いてたんだって。ゆっくり、ゆっくり、じゃり、じゃりって音を立てて。お母さんはびっくりして、思わず声をあげちゃったの、そしたらその女の人はこっちを向いて……」  話がここまでくると、恵は芯から震え上がって、恐ろしくなり、泣き出してしまった。恵の目をじっと見つめて取り憑かれたように語っていた理恵ちゃんは、泣き出した恵をおろおろとしながらあやそうと、取り繕った笑顔で優しく恵の手をさすりがら弁解した。 「ごめん、ごめんね、恵ちゃん。こんな話嘘よ、嘘。ごめんね、お姉さん怖い話が好きなの。ごめんね」  理恵ちゃんは謝りながら、全部嘘だと言ったが、彼女の話は恵にあの砂利道に恐れを抱かせるのには十分だった。  恵は階段を駆け上がり、通路に並ぶクリーム色の扉のひとつを開いた。ドアノブは銀色で、幅が広く、しっかりとしている。最近になって背伸びをしなくても届くようになった。  廊下を抜けた居間から何人もの人の笑い声が聞こえてきた。お母さんはまだテレビを見ているのだ。玄関のものに比べると細く色も茶色みのあるリビングのドアノブを引っ張って居間の扉を開けると、笑い声や話し声がクリアになる。築三十年は経つ団地の扉はキィーっと音を立てて開くので、お母さんは恵が帰宅したのがすぐにわかった。 「おかえり、恵。お父さんは?」 「下」  恵は一度お母さんの隣に座ったが、すぐに立ち上がって自分の部屋に向かった。お母さんは視線で恵を追っていたが、自分の部屋へ行ったのが分かるとまたテレビへ視線を戻した。  恵は部屋のベッドの柱に掛けてある、黄色に縁が紺色の幼稚園の鞄から、クレヨン箱を取り出した。いろんな色の汚れがついて、角がヨレている。ミニーちゃんのお弁当用の赤いバンドで箱はしっかり蓋を閉じられていた。クレヨン箱は、幼稚園の棚に置いてあるお道具箱に収納するように言われているが、恵は絵を描くのが好きなのでこっそり持って帰っている。怒られるようなことでもない。先生はそれを見てみぬふりしている。  恵は朝、キッチンのカウンターのところに、先月のカレンダーを切り離したのが置かれているのを見ていた。あの紙の裏は真っ白なので、らくがきにもってこいなのだ。恵が再びリビングに入ってくると、お母さんは恵に目をやって、その手にクレヨン箱が握られているのを見てとり、言った。 「汚さないでね」  恵はキッチンカウンターにくっつけて置いてあるダイニングテーブルの椅子によじ登り、カウンターからカレンダーの紙を取って、また椅子から降りると、お母さんのいる方へ向かった。ソファの前にはローテーブルが置かれている。テーブルの半分は通信販売の冊子やチラシと、郵便物で埋まっている。その下のテーブルの天板は、ところどころマジックペンの汚れや、シールを剥がしたあとがある。それが増えるたびに、恵はお母さんにひどく叱られる。  恵はカーペットの上に膝を立てて座り、テーブルの上に開いたクレヨン箱と、カレンダーの用紙を置いた。外されたミニーちゃんのバンドは郵便物のうえに投げ出されている。  お母さんは見ていた番組が終わったのか、退屈そうにチャンネルを回している。人の声が聞こえてきては途切れ、また違う声が聞こえてくる。時代劇のチャンネルでお母さんはボタンを押す指を一度止め、しばらく画面を真剣に見つめていたけれど、結局またチャンネルを変え、一周まわってしまうとテレビを消した。 「何描いてるの?」  お母さんは膝に肘を乗せて、身を乗り出して恵に訊ねた。 「お父さん」  お母さんの目には、それはお父さんと言うよりは、ただにこにこと笑っている男の人にしか見えなかった。 「上手ね」  恵は持っていた黒いクレヨンをチラシの上に置いて、青を取り上げた。それでお父さんのブラウスを描くのだ。 「恵ちゃん、ちゃんと使ったのは箱に戻すのよ」  まだ優しい声でそう言い、お母さんは青いクレヨンを持ち上げた。その拍子に、チラシを弾いてしまう。チラシはページをめくるような音を立ててテーブルの隅の方へ飛んでいった。その下から、白い封筒が現れた。  ポストから郵便を取ってきたときには、気付かなかったものだった。恵はお母さんが青いクレヨンを箱に戻さないで、違うチラシの上に置いたので、不思議に思ってお母さんを見つめた。しかし、お母さんは代わりに取り上げた封筒を凝視しており、恵の視線に気付かない。 「それなに?」  封筒の表面には、恵にはよくわからない文字が書かれていた。漢字ではない。平仮名は一文字もなく、記号のようなのが並んでいる。 「おかあさん、それなに?」  お母さんは恵に微笑みかけたが答えず、封筒をいささか乱暴な手つきで開いた。恵はソファによじ登ってお母さんの手元を見ようとしたが、お母さんは身を捩ってそれを避けた。  恵に見えたのは、便箋らしきものの一部と、写真と思しき紙の端だけだった。  お母さんはしばらくその便箋を黙って読んでいた。恵はお母さんの左肩に顎を乗せて、じっとそのほとんど見えない手元を見ている。そのうち、お母さんは便箋の後ろに隠れていた写真を便箋の上に重ねて見た。  お母さんの口の端がわずかに下がっているのを見て、恵はお母さんの機嫌が悪いことを悟った。  恵はお母さんのそばから離れて、再びカーペットに膝立ちになり、絵を描き始めた。  描きかけのお父さんを放置して、花畑の絵を描いていると、お母さんは徐にソファを立ち、恵の横に座って、左の腕で恵の肩を抱いた。 「恵ちゃん」  優しい声だった。 「これも、落書きしていいよ」  お母さんはそう言って、裏返した便箋を恵に差し出した。  恵はそれを黙って受け取り、その裏にお母さんの絵を描くことにした。
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