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会社に戻ると、他の面々はもう日報を書いていた。
「和香ちゃん、どうだった?」
由美さんがにこやかに話しかけてくれる。
「疲れました……」
嘘偽りなく本音だ。自分がしたのは高圧洗浄機でポリッシャーの入らない場所を洗ったことと、ポリッシャーのハンドルを握らせてもらっただけ。今までの作業量の三分の一にも満たないことしかしていない。
「自分が何してるのか、わからないと疲れるよね。大丈夫、すぐ慣れるから。じゃ、お先にね」
言うだけ言ってトクソウ部の小部屋から、由美さんは出ていった。
「由美ちゃんはごはん作らないとならないからね、忙しいんだ」
ペットボトルのお茶を飲みながら、植田さんが言う。
「結婚してらっしゃるんですか。大変ですね」
相槌のつもりで、和香は返事をする。
「ダンナはいないけどね。これから金がかかるから、彼女は必死だよ」
どうも植田さんは、話好きらしい。聞くだけのことならば和香にもできるので、喋る人の相手はラクだ。数年前まで造園会社にいたけれど、腰を痛めて転職してきたらしい。清掃業も身体を使う仕事だと思うのだが、扱うものの重量が違うという。
「庭石とか石灯籠とか、あるからねえ。木に登ることもあるし、もう無理だと思ってね。給料はえらい減ったから母ちゃんにも働いてもらってるし、子供は奨学金借りてもらってる」
他人の生活っていうのは、そんなにリアルじゃない。それが自分の経験の何かと被る事案があったとき、やっと理解が及ぶ。和香の学費は親が全部用意してくれたし、今現在父親の所得が減って生活が苦しくなるとか、考えられない。たとえ自分が失業しても叱られるだけで、家族全員が困窮するわけじゃない。親身な相槌が打てるほど役者じゃないので、表情は曖昧だ。
「みんな、大変なんですね」
当たり障りのない言葉で話を締めくくろうとすると、竹田さんと目が合った。
「明日も俺とペアね。昇降口巡り」
イヤですと返事するわけにもいかず、ただ頭を縦に動かした。
帰宅途中の道では、桜が咲きはじめていた。舘岡中の桜も、もうぼちぼち咲くだろう。来週には満開になるから、花びらを掃くのに追われるようになる。入学式準備と新入生オリエンテーションの世話。特に楽しかったわけでもないのに、それが頭に浮かぶ。
記念写真用の鉢植えの世話は、誰がしてくれるんだろう。カランコエをたくさん植えたプランターも、そろそろ外に出してもいいんだけど。自分が気にかけていた仕事をあれこれ思い出し、作業しに行かなくてはならない気がする。
和香は和香の担当区分として、責任感を持って仕事をしてきた。率先して校内を整備し、舘岡中はとても綺麗になったと褒められて、それを励みにしていた。ここでは必要とされている、ここでは爪弾きにならない。
水木先生と連絡先を交換したが、新しい赴任先は聞いていない。和香から連絡する要件は、まったくない。新しい学校はいかがですか、なんて連絡ができる性格ならば、もともと出会うこともなかった人なのだ。
美人でなく、コミュニケーション下手で、他人に誇れる特技もなく。水木先生だってきっと、連絡先を交換したことすら忘れてしまう。植物の栽培についてだけのことなら、和香よりも詳しい人間はどこにでもいるんだから。
また居場所を作らなくてはならない。幸い植田さんとは上手く話せそうだから、それを足掛かりにできるかも。手洗いの個室で弁当を食べるのも、帰り道で涙が止まらなくなるのも、もうイヤ。
修行三日目に、ポリッシャーの暴走がいきなり止んだ。自在に方向転換することは難しいが、とりあえずおとなしく前に進ませることに成功したのだ。こうなると、なぜ振り回されていたのか思い出せない。
「意外と早かったな。もっとトロいかと思った」
まだ気を抜くと大変なことになりそうなので、和香は進行方向しか見られない。コンセントの前にしゃがんでいると思った竹田さんは、和香の進行方向に立った。
「少しだけ左手引いて、ブラシの回転に合わせて……そうそう、曲がれただろ」
狐につままれたような気持ちで、一度スイッチを切ってもう一度動かしてみる。大丈夫だ、完璧じゃないけど制御できる。
「ふうん」
嬉々としている和香を、竹田さんは少しの間黙って見ていた。
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