トクソウ最前線

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 女子トイレは三階が終わり、二階に入っていたらしい。主事室に入ると、由美さんが管理さんと一緒に缶コーヒーを配っていた。 「男子トイレは清掃箇所が多くて、大変でしょう」 「生臭いです……」  和香もマスクを外しながら答える。常駐の用務員さんたちが茶菓子を出してくれると、竹田・植田ペアが入ってくる。 「壁にタバコのヤニがついてるってことは、禁煙になる前から拭いてないらしい」  公共施設が全部禁煙になったのは、ずいぶん前だ。壁なんて確かにそう頻繁に拭くものではないが、それにしてもってやつだ。 「今日、終わる?」  管理さんが缶コーヒーを傾けながら言う。今まではアレやれコレやれと指示される一方だったのに、今は管理さんがトクソウに質問している。請負の契約社員と本社の正社員では、やはり立場が違うらしい。 「ヨユーです。清掃指導もできますよ」  次のワックス塗布のタイミングなんかを竹田さんと管理さんが相談しはじめ、和香たちは雑談をはじめる。 「和香ちゃんの手際が良いから、結構早く進んでるね」  菊池さんの言葉は、お世辞半分だと思った。普段より汚れているとは言え、清掃手順は日常清掃とそんなに変わらない。だから当然トクソウは、自分よりも動きが早いはずだと、和香は思う。 「俺らは普段日常清掃しないからね。やっぱり毎日やってた人は、早い」  管理さんと打ち合わせしていたはずの竹田さんが、和香の方をちらっと見た。 「菊池さんの言ってること、本当だぞ。ちらっと手順見てたけど、男子トイレ、効率良かったわ」  汚れに涙目で、竹田さんが覗きに来たことは知らなかった。 「え、どういう順番?」  質問してくる由美さんに返事しながら、なんだか誇らしい気分になる。手洗いの清掃が上手だと褒められたと喜ぶ人なんて、そんなに多くないと思う。人によっては、バカにされたと思うかも知れない。  何一つ敵わないと思っていた敵地に、一太刀斬りこめたような。大袈裟な例えだろうが、和香の気分としてはそんな感じだ。斬りこんだ挙句に討ち死にしたとしても、自分の中には何かは残る。  褒められたことが自信になり、休憩後の和香の動きは軽い。便器はやっぱり臭くて、配管はドロドロで、洗面台に艶がなくなっていても大丈夫。自分には自分の日常清掃だけで習得したノウハウがあって、職場は少し変わっても無駄になっていない。これからもそんな案件は出て来るだろうし、それがあれば今みたいなコミュニケーションがとれる。自分から話しかけるのが苦手な和香には、相手から言葉を貰うことが、どれほど有難いか。  午後の早い時間に手洗いはすべて綺麗になり、臭いがどうのと言った事務職員に睨みつけられながら、給湯室の換気扇とシンクを洗う。  そーんな顔して睨むくらいなら、給湯室くらい使う人が掃除すれば良かったじゃないの。油に埃が付着した換気扇、何年このままになってたの? シンクなんて漂白剤で綺麗になるのに、黄色く濁るまで放っておいたのは、使う人は一切洗わなかったってことだよね。気がついたときに一分もかからない手間で、本人は気持ちよく使えるのに。  三時休憩のあとに、常駐の用務員に清掃指導をした。廊下にモップをかける手順やチェックするポイントのあと、全員で手洗いに移動する。 「これから一度実践するので、見ていてください」  見ていてくださいと言いながら、竹田さんは自分で実践するつもりはないらしい。和香に一式のバケツを持たせている。その中身に、疑問の声が上がる。 「トイレ用のブラシはないんですか」  由美さんが説明するものだと思って油断していたが、視線が和香に注がれているので、仕方なく自分で返事をした。 「ありません。スポンジで手洗いします」  これについての説明も、自分でしなくてはならないだろうか。 「どうしてもブラシの入らない部分が出てきますので、プロは手洗いが基本です。便器に手を突っ込むのは抵抗があるでしょうが、慣れます。ゴム手袋をしてるんだから、汚くないです」  和香のの言葉に、これまで会社で他人を使ってましたって雰囲気を醸す新人さんが、反発の声を上げた。 「プロとか言われても、私らは軽作業で誰でもできるって募集で入ってきてるんだし、時給も安いし」  つい数日前まで同じ時給で働いていた和香が、ここにいるのだ。竹田さんが和香の顔をちらりと見たのは、ちゃんとそれを知っているから。言ってやれと先を促すように、顎を動かす。 「お金が発生すれば、プロです。私も何日か前まで、日常清掃していました。誰でもできる仕事ですが、誰もがする仕事じゃありません。みんながしないからこそ、私たちに需要があるんです」  もちろん一気に言えたわけじゃない。どもったりつっかえたり、相手に通じているのか謎なレベルだ。とりあえず言いたいことを言葉にすると、由美さんと片岡さんが向かい側で頷いているのが見えた。  会社に帰る車の中で、運転する竹田さんの助手席から、植田さんが後ろを振り返った。 「和香ちゃん、プライド高そうな爺様相手によく言えたね。竹田ちゃんじゃ喧嘩になるとこだったわ」 「植田さん。榎本を褒めるのに、わざわざ俺を下げなくっていいっすよ」  ああ、そうか。また褒めてもらったのか。
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