アルバム

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 休日、仕事がないこの日に、私は、母が入院している竹ノ内病院へ来ていた。  母は鹿児島市内にある病院の三階。個室の部屋が並ぶフロアに入院している。  同じく市内にある自宅から車を走らせ数十分、母がいる病院に着いた。  車を降り、病院の入口へと向かった。  自動ドアが開く。  私は少し息を吐き、呼吸を整え、中へと入って行った。病院の中はいたって普通。特段変わったことはない。  市内ということもあってか、かなり人であふれていた。いや、どちらかというと今日が土曜日で一般的に休日だからだろう。  受付で宴会カードを受け取り、首にかける。  病院にいる大多数は入院患者の見舞いだろうか。家族連れもちらほら目に入った。  その光景を横目に見つつ、私はエレベーターへと歩みを進める。  母の部屋は三階。いつもはエレベーターに乗るのだが、今は無理そうだ。ちょうど大型の荷物を運んでいる最中で、どうしても乗れそうになかった。だから私は、仕方なしに階段から行くことにした。  階段を上っていく。  一段、また一段。階段を上るごとに脚が重くなっていく。  重い脚を上げ、なんとか三階までたどり着いた。  三階に着いた時には、私の脚はもう、棒と化していた。  そんな脚を無理やり動かし、母の部屋を目指す。  母の部屋に着いた。母の部屋は階段からすぐ近くで、歩くのにそこまで苦労しない。  ただ、それでも私は疲れていた。  目の前には「中村 静流」と母のネームプレートが見えた。  胸にある感情を抑え、私は、スライド式のドアを開ける。  突然風が吹く。  どうやら窓が開いていたようだ。カーテンがひらひらと揺れ、外に咲いている桜の木が見えた。  部屋の床には桜の花びらも落ちている。  涼しく、外の光を取り込んだ明るい部屋に母はいた。 「お母さん。また来たよ」  私の声は母には届かない。部屋には空しく私の声が響くだけ。  それもそのはず。母は、寝たきりの状態。寝たきりになって少し経つ。  半年前、母は事故を起こした。車と車の衝突事故だ。幸い死人は出なかったものの、事故を起こした本人が寝たきりになってしまった。父は幼いころに死に、残ったのは私と母だけ。兄妹はおらず、一人っ子の私が母の世話をするしかなかった。だからこうして休日に母の見舞いに来ている。自分で事故を起こし、寝たきりになった母を私は憐れに思っている。憤りも感じている。そんな母の見舞いに来ないという選択肢もあるにはあったが、実の母親で、母のことを見る人が誰もいないという状況がそうさせてはくれなかった。  窓から光とともに、桜の花びらが入ってくる。それは、この暗い部屋を幾分かましにさせた。  ベットの横にあるテーブル付きの棚に目を向ける。  テーブル部分にはテレビと花瓶が置かれていて、窓から入った桜の花びらが何枚か乗っていた。  花瓶には花が活けてあり、中の水は少なくなっていたが、その分瑞々しく、きれいな色を出していた。  そして、すぐ隣で寝ている母に視線を移す。  母は目を開けることもなく、一瞬たりとも動かない。  母の水は涸れていた。  花瓶の水を新しい水に入れ換える。これで花は瑞々しさを保っていられる。  その花の隣で眠る母は、食事が取れない。  入院当初は鼻から胃へチューブを通して栄養を補給していたが、長期入院になりそうだということで、今は胃瘻いろうによって栄養を補給している。そのため、母のお腹には小さな穴が開いている。点滴と同じように、チューブから栄養剤を注入する。その管が母のお腹に繋がっており、その光景が私にはひどく滑稽に見えた。 「それじゃあ……また来るね」  受け取り手不在の挨拶は、空へと消える。  そのまま母へ向けていた視線をドアへと移し、歩く。  足取りはやはり重いまま。部屋から出て、ドアを閉める。  途端、閉めたと同時に私の脚は驚くほど軽くなった。  その足取りのまま、行きでは使えなかったエレベーターへ向かう。エレベーターでの帰りは驚くほど快適だった。行きの、あの重苦しさが嘘のようだ。そんなことを考えていると、あっという間に一階に着きドアが開く、そうして一階へ降り、病院の出口を出る。車に乗り、私は帰路に就いた。  翌日。  休日を終え、私は仕事に戻り市内にある、食品販売の会社に出勤していた。  食品販売といっても何か食品を作ったり、販売したりというものではない。私の仕事は経理関係でありであり、完全な事務作業。大学をストレートに卒業し、今の会社に就職してかれこれもう十年経つ。会社の中では既にベテランの域に達していた。もちろん部下もいる。ちょうど新卒の子が五名ほど入ったばかりで、私がその新人の中の一人の育成を任されていた。 「あの、中村先輩」  デスクにつき、事務作業をこなしていると、背後から声をかけられた。 「どうした柳田」  背後に振り替えると、高身長の男が紙を数枚持ち、少しそわそわした態度で立っていた。  この男こそ、私に任された新人。まだ入社してそこまで日が経っていない。そのためか、やけに緊張しているようだった。 「そ、その、この書類はどういう風に書けばいいのかわからなくて」 「ああ、これね」  柳田が持っていた書類を受け取り、書き方を教えていく。 「あ、こう書くんですね」 「この書類、最初はやっぱり書き方わからないわよね」 「先輩も最初はそうだったんですか?」 「そうよ。私も柳田と同じように先輩に聞いてたっけな」  柳田が持ってきた書類は過去に、私が新人だった時に苦戦した書類と一緒のものだった。そんな新人時代の自分を思い出し、少し笑みがこぼれた。 「二人とも何してるの?」  柳田と会話をしていると、隣のデスクから声がかかった。 「美咲。今仕事中」 「いいじゃん清子。ただ何してるのか気になっただけー」  声をかけてきたのは同僚の櫛木くしき美咲みさき。同じ年にこの会社に入ってきて、もう付き合いはかなり長い。 「柳田がこの書類の書き方がわからないっていうから教えてたのよ」 「あーこの書類ね。ほんとこの書類わかりにくいよね」  机に置いていた書類をさっと取り、一瞥する。  美咲もこの書類に困っていたことをよく覚えている。 「私この書類ほんと嫌いだったわ。わかりにくいったらありゃしない。まあ、今となっては別に普通だけどね。……えっと、新人の柳田だっけ?」  美咲は書類から目を離し、私の後ろに立つ柳田を見る。 「は、はい」  柳田は美咲の雰囲気に気圧され、かなり委縮していた。 「あーそんなに緊張しなくていいから。その、とりあえずお仕事頑張ってね。清子……中村はいいやつだから、何かわからなかったら聞くといいよ」  何気ない美咲の言葉。その美咲の言葉が私の心にひどく刺さった。 「……はい。……中村先輩、今後ともよろしくお願いします」 「うん。よろしくね」  だから私は、引き攣った笑顔しか作ることができなかった。  その後、何事もなく仕事は終わり、家に帰り、寝る。そして朝になる。朝になり、会社に出勤する。それが繰り返され、ついに日曜日になった。  ついに、憂鬱な休日が始まった。  私は車に乗っていた。前の宣言通り母の見舞いのためだ。  アクセルを踏む脚が、病院が近づくにつれ重くなる。だが、実際には重くなどなっていない。いたって普通だ。これは私の気持ちが重くなっているだ。錯覚で脚が重くなっているように感じているだけだ。思えば先週、母の見舞いに来た時も同じような感じだった。  病院に着く。  通例通り車から降り、重い脚を上げ、病院へと入った。  今日はエレベーターが使える。  病院に入り、受付で面会カードをもらい首にかける。 「お母さんのお見舞いに毎週来て偉いですね」  受付の同年代くらいの女性が私に話しかけてきた。 「いいえ。別に偉くなんてないですよ」 「そうですかね?」  決して謙遜ではない返事を女性に返すと、少し困った表情でそう返した。 「では」といい、私はその場から去り、エレベーターに乗った。  一階、二階と上がっていく。  三階に近づくにつれ私の脚は重くなる。  三階に着き、ドアが開く。  ドアが閉まる前に脚を進める。そして母の病室の前に着いた。  ゆっくりと深呼吸をし、気持ちを整える。  ガラガラと音を鳴らし、スライド式のドアを開ける。 「来たよ、お母さん」  母はまだ眠っている。このまま一生起きないかもしれない。でも、それは仕方ない。全部自分で蒔いた種なのだから。  先週変えた花瓶の水は減っており、花は鮮やかに咲いている。  依然、母の水は涸れたままで、鮮やかさを失っている。栄養剤は定期的に変わっているはず。でも、いくら換えるようが母の鮮やかさは一向に戻らない。  花瓶の水を換える。水を換えれば花は鮮やかさを保っていられる。  母の見舞いにはそんなに時間はかからない。だが、この少ない時間が私にとっては億劫だった。 「じゃあ、また来るね」  いつも通りのその挨拶は、誰にも届かない。  こうして母の見舞いは終わり、私の休日は終わった。  そして翌日。会社に出勤していた私のもとに一つの電話が入った。 「もしもし、竹ノ内病院です。中村清子さんのお電話でしょうか?」  ちょうど美咲と世間話に興じてる時だった。突然の病院からの入電に、私はとうとう来たかと、身構えた。 「お気を確かにお持ちください。大変申し訳ないのですが……お母様、中村静流さんは今しがた体調を崩されまして、亡き人となりました。私たちも手を尽くしたのですが……誠に残念です」  やはり、そうだった。心の中にあるひどく、深い深い闇を抑え、冷静に返事を返す。 「そう、ですか。わかりました。母のために手を尽くしてくださりありがとうございました」  ツーツーツー  電話を切り、心を落ち着かせる。 「今の何の電話? お母さんがどうとか言ってたけど、もしかしてなにかあったの?」  美咲は私の母が病院に入院していることを知っている。だから、母という単語に少し慌てて問いかける。 「亡くなったって。今のはその電話」  淡々と紡ぎだした私の言葉に、美咲は一瞬理解が追い付かず、固まった。 「今、お母さんが亡くなったって言った?」 「うん」 「えっ、……、あっ……」  美咲はどうしたらいいかわからない表情で、何か言おうとしては口を噤むことを繰り返していた。  その後、私たちの間に会話はなく、そのまま仕事は終わりを迎えた。  月日は経ち、母の葬式が厳かに行われ、私は遺品整理のため鹿屋にある、実家へと訪れてていた。  実家に戻るのはかなり久しぶりだ。父が亡くなり、母が入院していたため、実家に電気と水道は通っていない。  日差しが差し、電気がなくとも十分明るい。その状況で私は棚の中を漁る。何か大事な封筒。使えない通帳。印鑑。色々と入ったその棚の中にでかでかとスペースを取るものがあった。 「アルバム?」  それはいつのものかわからないアルバム。そのアルバムをペラペラと捲っていく。アルバムの中には幼い私と、亡き母と父の姿が。 「若いな。私もだけど、三人とも」  今は亡き、二人の若かりし姿がそこにはあった。 「これは小学生の時、桜島に行った時の写真かな?」  小学生の時、休日に母と父と私で桜島に行ったことがある。その時に取った写真がアルバムにはつづられていた。 「あの時は桜島が噴火して灰まみれになったっけな」  過去の思い出に耽り、一人くすくすと笑う。  次のページに行くと時代は変わり中学生の自分が写っていた。 「あーこれ、入学式の写真だ。確かお父さん、日曜日仕事で土曜日しか休めないのに無理してきてくれたんだっけ」  その写真の隣には運動会の写真が。中三の、中学生最後の運動会の写真があった。 「これもお父さん無理して来てくれたんだっけ。お母さんも仕事で疲れてるだろうに、朝早く起きてたくさん弁当作ってたな。」  その思い出を振り返るたびに、私の心は締め付けられ苦しくなる。 「あ、れ、なんで……」  写真には数滴のしずくがついていた。それは次第に数を増やしていく。 「あ、れ……おかしいな。な、んで、涙が、出るの」  視界がどんどん霞んでいく。だが、アルバムを見る手は止めなかった。  捲れば捲るほど、胸は苦しくなり、涙が流れていく。  時代は変わり、高校生の写真が目に入る。  写真の数はかなり少なくなっていた。そして気づく。  このアルバムのほとんどが休日に撮られたものだということに。  父と母は、休日を写真の数だけ、いやそれ以上費やしてくれていた。なのに私はそのことに気づかず、母と過ごせる休日を疎かにしていた。そのことに気づいた時にはもう遅かった。母はもういない。父ももういない。そうして残ったのは、家でゴロゴロしたり、ショッピングに行ったりの普通の休日だった。
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