第2章 「古代、月の女神」

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 この慎ましい女人は、心からそう思っているのだとルナは改めて感心した。ルナの想い 人は、命の恩人であり育ての親でもあるアルテミスただ一人だが、このセレネにもまた特別な念を抱いていた。 ひたすらに淑やかで心優しい、それでありながら、とびきり麗しい人。姉を慕う弟のように、安らぎを与えてくれるのが、古代からの月の女神セレネであった。  「今宵は星が、蛍のように瞬いていて美しいですね。私好みの夜です。星の光を消さぬように、優しい月を演じましょう」  そう言ってセレネは、長い長い月の回廊に足を掛けた。カツッと夜の始まりを告げるが如く、ガラスのヒールが小気味よい音を立てる。  ここ月の回廊は、アルテミス神殿にある長い長いアーチ状の回廊で、地上に月光を降らせる役割を果たしている。回廊には十二の分岐点があり、午後六時は牡羊、午後七時は牡牛という風に十二星座順になっている。  「さぁ、水晶よ。半月の光を地に降らせておくれ」  セレネがそう言って、牡羊の台座に水晶玉を乗せると、天にぽおっとブルーの半月が現れた。この当番はアルテミスとセレネで順番に行っているのだが、アルテミスは水晶ではなく、大きな真珠を台座に乗せている。よってアルテミスが月の回廊を歩く時は、月は金色。セレネが歩く時は、月は青色に変化する。二人とも、何らかの用事がある時は、信用のおける女官にこの役目を任せる事にしている。  「ふう。これで一時間は暇です。ルナ、何か飲みますか?」  朝六時までの十二時間、順番に台座に水晶玉を乗せる決まりだが、それ以外は自由時間だ。セレネは今宵の付き添いに、ルナを選んだ。  「そうですね。僕、ジャスミンティーを持ってきたので、一緒にどうですか?」  「良いですね。頂きましょうか」  ルナがトポポと白い陶磁器に茶を注ぐと、湯気と良い香りが二人を包んだ。頭上を見上げても見下ろしても、透明の回廊からはキラキラと星が良く見える。星空の中、ロマンチックなティータイム。  「僕、疑問なんですが、どうしてセレネ様は、古代の月の女神と呼ばれているんですか?」 十二時間も一緒に過ごすのだから、気になっていた事を聞いてみようとルナは質問した。  「あら、話していなかったですか?私は、アルテミス様よりも、生まれたのが先だったんです」  カップに紫色のルージュを口付け、セレネは言う。陶器の白に映える、艶やかでなまめかしい唇だった。  「え?先に生まれたのがセレネ様なのに、セレネ様はアルテミス様にお仕えしているんですか?」  「ええ。私なぞ、ティターン神族出身の大した事ない神ですが、アルテミス様は父上にゼウス様を持つエリートの中のエリート。月の女神の座を譲って、当然です」  セレネは何てない風に言うが、ルナは中々出来ない事だと思った。今までは自分が月の象徴として崇められていたというのに、いきなり新参者にその役目を奪われるなんて・・・。   「けれど僕は、ギリシアの神話を読んで、ティターンと新勢力のゼウス様率いるオリンポスで、激しい戦争があったと聞きました」  「ありましたよ。それはそれは過酷で、血みどろの争いが」  澄んだ目に哀しそうな色を浮かべ、セレネはティーカップの中の液体をジッと見つめた。ジャスミン茶には、今宵の青い月が映し出されている。  「権力への固執。勝つ事で得られる地位・・・。けれども、それが本当に私たち神が目指すものでしょうか?神としての権威よりも、私は神の使命は、どれだけ民に貢献出来るか。信頼して貰えるのかが重要だと思います」  「セレネ様・・・」  「それに、アルテミス様は気高く、まさに女王の器。あの方に仕えていれば、月は未来永劫、安泰ですもの」  ニッコリと微笑むセレネの笑みは聖女そのもので、ルナの心も洗われるようだった。ああ。この人こそ、真の淑女だ。自分のプライドなどより、何よりも民の安寧を気遣っている。アルテミス様だけでなく、この方あってこその月神殿なのだ・・・。  「セレネ様のそのお言葉を聞いて、僕、尚更、強くならねばと思いました。来週の分岐試験、必ずや合格してみせます」  「まぁ、それは心強いです」  十四歳の美少年ルナが、セレネに抱いた忠誠心。それは、アルテミスへの物とはまた違うが、強く神聖なものだった。
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