第2章 「古代、月の女神」

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 「でもね、ルナ。貴方を見ていると不安にもなりますわ」  「どうして?」  ルナの深緑色の目が、女神を見据える。  「貴方はいささか、アルテミス様への想いを強く持ち過ぎているようですから」  「と、言いますと?」  「私も昔、愚かな失敗をしましたものですから」  セレネの目に再び、悲哀の色が浮かんだ。だが、美しい人は、悲しみが深くとも尚、美しい。  「・・・お言葉ですが、どんな事があったのか、聞いても宜しいですか?」  「いいですよ」  セレネはスッと水晶玉を、牡牛の玉座に乗せた。時が刻まれる毎に、二人は時計回りに回廊を移動し、深夜十二時には月は最も高い位置に昇るという訳である。  「こんな静かな夜ですから、お話しましょう。浅はかな私の、悲恋を」  セレネは目を閉じて、楽器を奏でるかの如く、優美な声で語り始めた。  その昔、まだアルテミス様が産まれる前、私は唯一無二の月の女神でありました。月の回廊は今と同じく壮麗とそびえ立っていて、私は毎夜毎夜、地上を青い光で照らしておりました。  今と違って遊びたい盛りでしたから、水晶玉を台座に乗せたら、そのまま下界に遊びに行くなんて事も、よくございましたのよ。今思えば、なんて恐ろしい事をと思いますが、運良く、トラブルもありませんでした。  さて、ある夜、いつものように人間界をさまよっていましたら、それはそれは美しい青年に出会いましたの。ルナ、貴方もすこぶる端正な顔をしているけれど、彼も凄く素敵でしたわ。青年の名はエンデュミオンと言って、羊飼いをしておりました。  きめ細やかな肌に、知的な灰色の瞳。プラチナブロンドの髪は光の当たり具合によっては銀色にも見えて、彼もまた、月光を思わせる殿方でしたわ。私は一目で彼に激しい恋をして、彼に思いを伝えました。エンデュミオンもまた、こんな私の愛に応えてくれまして、私達は毎夜毎夜、月明かりの中で逢瀬を重ねました。  誰かを愛すると、胸があんなにも満たされて、世界中が輝いて目に映りました。私は幸せ一杯で、毎日を満ち足りた気持ちで過ごしていたのだけれど、すぐに現実を思い知らされました。  ルナ、貴方は会った事がないけれど、私には双子の姉エオスがいます。エオスは曙の女神で、アルテミス様の双子の兄、アポロン様の神殿にお仕えしていますわ。エオスは艶やかで、曙のように眩く麗しい女人でね、愚かな私にこう諭しましたの。  「セレネ。恋を楽しむのは良いけれど、彼は人間。いくら愛しても、いつかは死ぬ運命よ」  この一言で、一気に現実に引き戻されましたわ。ああ、そうですわ。エンデュミオンは人間で、私は女神。この幸せが永遠に続く事など、有り得ないのだと。悩んだ結果、エオスの助言もあり、私はゼウス様に相談する事に致しました。全知全能のゼウス様ならば、何とかして下さると思いまして。そして、ゼウス様のお言葉はこうでした。  「人間はいつか死ぬ。その運命には抗えない。それでもエンデュミオンを永遠に生き永らえさせたいというのなら、方法はただ一つ。彼に永遠の眠りを与える事だ」と。  エンデュミオンにそれを告げると、彼は笑顔で言いましたの。貴女に愛される為ならば、喜んでそれを受け入れると。あの時の彼の嬉しそうな顔・・・。今、思い出しても胸が締め付けられますわ。ああ、私達はこんなにも深く、真に愛し合っているんだと歓喜に震えながら、私は彼に口づけを与えました。  童話の白雪姫が眠りから覚めたのは、王子の愛ある接吻だったというのに、私達の場合は、逆に眠りが与えられるのだから皮肉なものです。エンデュミオンと長い長い、そして深過ぎるキスをした所で、彼は永遠の眠りに就きました。瑞々しいままの姿で。まるで、氷の棺にでも閉じ込められたかのように。  こうして、彼はずっとずっと、世界の終わりが来るまで私の物になりました。でも、同時に眠っているから、二度と彼の笑顔は見られません。愛を伝える事も、感動を共有する事も・・・。そう思うと、彼にこんな道を与えた私は、彼を苦しめてしまったのだと、今は後悔ばかりです。  私を愛さなければ、彼は、普通に人間としての生を全う出来たのですから。普通に恋をして、結婚して、子どもを作り、そしていつかは死んでいく・・・。そんな彼の未来を奪った私は、彼にとって女神でなく、死神だったのだと今になっては思います。  
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