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 一人暮らし用のキッチンにはコンロが3つ付いていて、その一番奥で鍋を沸かしながら、俺は左壁にある南向の出窓を開けた。  ひんやりと乾燥した朝の空気が入り込むと、鍋の湯気が面倒そうにひしゃげる。底に沈んだ一枚の昆布が見えて、慌ててそれを取り出した。  今日は晴れ。抜けるような空に時折、渡り鳥が飛んでいく。 「……だから、俺は大丈夫だって、何度も言っているでしょう。学費は母が永倉(ながくら)家側で残してくれていたし、返還しなくて良い奨学金もある。大学院が終わるまでの生活費くらいバイトで稼げますから。」 『そうは言ったって、まだじゃないの。それにあの男、姉さんの葬式にも来ないってどういうことなのよ。どれだけ姉が苦労してあなたを育てたか………。壱之助(いちのすけ)くん。社会人になるまでの生活費くらい、もらわなきゃ割が合わないわよ。』  本当は、お金さえあれば社会人じゃなくてになりたかった。でもそれが金銭的に出来そうにないから、来年には就職活動をしなくてはいけない。そんな葛藤なんて、叔母(こいつ)には言ってもわからないんだろうな。  そんな苛立ちをぐっとこらえて、円柱に切った大根の側面に包丁を当てたまま、スピーカーにしてある携帯に話しかける。 「その気持ちはわかります。でも、俺はいまさら顔も知らない父さんに会う気は無いし、会ったところで金をせびるなんてもっとしたくない。」 『その気持ちはわかります、って他人事みたいに……。何かあなたの言うことって信じられないのよね。前から思ってたけど壱之助くん、あなたほんとに姉のこと悲しんで………』 「なんですか。」 『いえ、ごめんなさい。口が過ぎたわ。忘れて頂戴。 』 「大丈夫ですよ。」俺は写りもしないのに、電話の向こうの叔母に笑顔を作った。 「俺が生前の母とどれだけ会話を交わしていたかを叔母さんが知らないのも、しょうがないですよ。一親等以外面会禁止でしたものね、あの病院は。」 『え、えぇ。』  嘘だ。ちゃんと申請すれば、親戚でも面会は出来た。それでも来なかったのは、叔母が母の死の予兆に、向き合う勇気を持たなかったからだ。 「母は毎日を大切に生きていました。……死ぬその日まで。だから俺は、彼女の死をこれ以上、殊更(ことさら)に悲しむつもりは無いんです。それじゃ。」  よく乾いた布巾で手の水分を拭い携帯のディスプレイに映る赤いボタンをタップすると、雑音は止んだ。  もう一度手を洗い、沸騰した鍋に花鰹をひとつかみ落とす。何度も何度も、母がそうしたように。(かつら)剥きをした大根の(うす)膜を、空に透かして見比べる。 「……そっくり。」  繊維のような層状の雲が、初冬の青空を覆って行く。  俺はこれで良い。これが良い。  眼鏡にかかった黒髪を手の甲で払って、俺は俺の日常を取り戻していく。
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