第10話 夏休みと水やり当番

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第10話 夏休みと水やり当番

 落書き事件があったその週に学年集会が開かれた。  犯人が名乗り出ることはもちろんなかったし、目撃者が現れることもなかった。しかし嫌がらせが公になったことで、教師が目を光らせているのもあってか、その後和泉さんが嫌がらせを受けることはなかった。  そうして平穏無事な日々が流れ、夏休みに突入した。  午前中は部活。終われば部活の友達と遊ぶか家で一人過ごす。去年の夏はそうだった。  一年の終わりくらいにおれはサッカー部を辞めた。いちいち面倒くさい先輩に我慢しながら続けるのが嫌になって辞めた。入部した理由がなんとなくだったのもあって、なぜ続けているのか疑問に思ってからは早かった。部活に出たり休んだりしながら一週間がたった頃には退部の決意は固まっていた。  そんなわけで、今年の夏は宿題を見て見ぬふりしながら退屈な日々を過ごしていた。  ベッドで横になり、窓越しに外を見上げる。  和泉さんはどうしてるだろう。  ぼんやり考える。  暇を持て余している姿がまったくもって想像できなかった。  絵を描いて、歌って、ピアノを弾きながら歌うこともあって、気分転換にふらっと散歩して、外で拾った刺激を持ち帰ってまた絵を描いて、写真も撮って、気づいたら夜で、読書もして、また新しい一日が始まって――  頭に浮かんだ和泉さんは、退屈という概念そのものが失われたみたいに充実した日々を送っていた。  衝動的に何かしたくなった。  だけど肝心のやることが思いつかない。  とりあえず手つかずの宿題から、とそれは、まあ、今日じゃなくていいや。  手を広げながら、どでんと仰向けになる。  そういえば明日は花の水やり当番で朝から学校に行かなくちゃならない。  二人一組。で、相手は真中。ファーストあーんのお相手だ。  鬼と組まされるよりはよっぽどましだけど、それでもやっぱり気が重い。昼休みに晒し者になってから一言も喋っていない。そんな訳あり関係の相手と二人っきりで作業。 「あ~ん、行きたくねー」  水やりは朝九時から。制服に着替え、おれはその八分前に家を出た。  手ぶらで自転車にまたがる。学校までは五分もあれば着くはずだ。  自転車通学区域外の生徒も、部活やこういう当番の日は自転車の使用が正式に許可されているのか暗黙の了解なのかは知らないけど、咎められることはない。  自転車をこぎ始めて早々に額に汗が浮かんだ。朝だっていうのに太陽の照りつけは日中のそれと大差ない。夏休みに入ってから冷房の効いた部屋に身体が慣れてしまったせいで体感温度も高くなっている気がする。  でも普段の登校中に引き返したくなるような暑さとは違って、さわやかな暑さだった。間違いなく気持ちの問題だろう。まあ待ち構えている人物のことを考えるとどっちみち帰りたいんだけど。  学校が見えた。グラウンドの外周をフェンスに沿って進む。野球部とソフト部が練習の準備をしていた。  正門から入る。駐輪場には向かわず校舎前の日陰に自転車を止めた。  去年の水やりでホースは一人しか使えないのがわかっていたので、倉庫にじょうろを取りに行く。ちょうどそのとき、裏門のほうから真中が歩いてきた。  おれはできるかぎり自然に言った。 「おはよう」 「おはよ」  そっけなくではあったけど真中も挨拶を返してくれた。 「おれ、じょうろ使うから真中はホース使って」 「わかった」  面倒なほうを引き受け二手に分かれた。  真中が花壇に水をやってくれているので、おれはプランターの花に水をやっていく。真中とは離れた場所にいるので沈黙は当然なのに、存在自体を変に意識してしまうせいか空気が重い。容赦なく降りそそぐ日差しも相まって息苦しさすら感じる。  じょうろの水が空になったので手洗い場へ汲みにいく。真中に入れてもらうのが手っ取り早いから本当はそうしたいけど、気まずいので手間のかかるほうを選んだ。  またすぐに水がなくなり汲みにいく。今度は限界まで入れてやった。往復回数が減らせればいいなと慎重に運ぶも、結局歩いた道の所々に染みを落とし、効率の悪いことをより効率悪くしているだけだった。  真中の後ろを通り過ぎようとして、不意に声がかかった。 「ねえ」  じょうろを持ったまま振り返る。  真中はシャワーモードで水をまきながら、横目でおれを見た。 「わざわざ汲みにいかないでさ、わたしに言いなよ」 「あ、うん。じゃあ次からお願いするよ」  真中は何も言わず視線を戻した。かと思えばもう一度おれを見る。水を止め、体ごとこちらを向き、弱弱しい口調で言った。 「この前は、ごめんね」 「昼休みのこと?」  申し訳なさと恥じらいが混ざったような表情で「うん」と小さく頷く。 「真中のせいじゃないよ。それに真中は被害者みたいなもんじゃん」 「いや、あれはわたしがおもしろがって野次ったからああなったわけで。余計恥ずかしい思いさせたよね」 「まあね。食べさせてもらうのとか初めてだったから余計に」 「あ、そうなんだ」と伏し目になった真中だったが、すぐにはきはきした口調になった。「ごめんね。初めてがわたしで、しかもあんな形で」 「いいよ別に。初めてがどうとか気にしないし、ああいうのも興味なかったから」 「そっ」 「えっ」  真中は背中を向ける。水やりを再開し、ぽつりとこぼした。 「ばっかみたい」 「え」 「ばーか」 「なんだよ急に」  返事はなかった。よくわからないけど気まずさはかなり和らいだ。そのまま真中の近くで水やりをすることにした。  プランターの花に目を向けたままおれは言った。 「あのさ、一つ聞いていい」 「いいよ」  答えるかどうかまでは約束できないけど、と付け加えた。  おれは横に一歩ずれ、真中の背中をちらっと見てから切り出す。 「この前、和泉さん机に落書きされてたじゃん。あれ、なんか知ってる?」 「知ってる」  傾けていたじょうろを水平に戻し、やおら振り向く。  真中は水を止め、続きを口にした。 「ていうか私も関わってる」  真中たちの仕業だったことに驚きはない。だがそのことを自白したのは意外だった。 「お前も書いたの」 「うん。書いたよ」  開き直っているような口ぶりではなかった。  真中は振り返り自虐っぽく笑う。 「軽蔑した?」 「した」 「だよね」 「サイテーだな」 「サイテーだよ。……ほんと、サイテー」  足元に目を落とし唇を噛む真中。アスファルトの地面に落ちた斑点はすぐに蒸発して消えた。  なんでお前が泣くんだよ、と喉まで出た言葉を飲み込む。考えればある程度想像できた。だからといって許されることじゃない。とはいえここでおれが責め立てるのも違う気がした。 「こんな炎天下で泣くの高校球児くらいだぞ」 「……は? そうでもないでしょ」 「そうでもなかった」  真中が指で涙をぬぐう。  あたりが急に薄暗くなった。厚い雲が日差しを遮り、吹き抜ける風はひんやりしたものになった。 「なんでオ」 「お?」  危ない。いつもの癖で「鬼」って言いかけた。その呼称は男子間でのみ使われているはずだし、完全には真中を信用できないので鬼呼びは避けるのが無難だろう。 「真中はなんで阿部と一緒にいんの」 「一つって言ったくせに」  まあいいけど、と真中は話す。 「好きで愛優奈といるわけじゃないよ。でも同じクラスになってそっち側の人間だと思われたら無視できないっていうか。避けたら目つけられるし。だからね、怖いから一緒にいるの」 「女子は大変だな」  てっきり同族だと思ってた。調子を合わせる場面はあっても媚を売る姿は見たことなかったから。うまくやってたんだ。 「だからさ、そういう環境の中でも物怖じせず行動できる和泉さんに憧れてたんだよね」  和泉さんとは一年の時も同じクラスだったのだと真中は話した。 「実那も一緒でね。わかる? 後藤実那」 「わかるよ」  鬼と唯一対等な間柄の彼女をおれたちの学年で知らない者はたぶんいない。  その後藤と真中と和泉さんは行動を共にしていた時期があったのだそうだ。どのグループにも属していない和泉さんを、顔採用で後藤が引き入れた。  グループ内で和泉さんは空気同然だった。だからといってそんな和泉さんを後藤は手放さなかった。服やアクセサリーに喋る機能が必要ないのと同様に、和泉さんも隣にいればそれでよかった。  やがて和泉さんはグループから距離を置き、一人で過ごすようになった。  陰口を叩かれ嫌がらせも受ける可能性があるのを知ってか知らずか、和泉さんは居心地の悪い集団から平然と抜け出した。抜けた後が怖くてずるずる関係を保っている真中は、そんな和泉さんがかっこよくて憧れを抱くようになったらしい。  落書きの件は別にして、真中の選択はかっこよくはないかもしれないけど、間違ってはないんじゃないかなと思った。  それにしても後藤の次は鬼に捕まったのか。不運なやつだ。 「そんな人にあんなことしたんだよ。ほんと、最悪……」真中は無理やりに笑みを浮かべる。「どこまでダサくなれば気がすむんだって感じだよね」  いい人が損をするってこういうことなのかな。  たとえ和泉さんに直接許してもらえても、真中を苦しめる後悔は今後もついて回るかもしれない。  過去のことだと恥ずかしげもなく割り切り、のうのうと生きられる人間がいる一方で、過ちの代償として罪悪感や自責の念に苛まれ続ける人間もいる。後者の人間のほうが好感を持てるから、バランスは取れてるのかもしれないけどやっぱりなんだか腑に落ちない。  水やりが終わり、片付けの段になって真中は言った。 「わたしも聞いていい」 「いいよ」  目を見据えられ、ちょっとどぎまぎしてしまう。 「藤井って和泉さんと付き合ってんの」 「付き合ってないけど」 「そうなんだ」 「うん」 「じゃあ和泉さんのこと、好き?」 「好きだよ」 「そっか。そうだよね」  会話が途切れそうになるも真中は質問を重ねた。 「じゃあわたしは? やっぱり、嫌い?」 「嫌い、だったけど、ちょっと好きになった」  真中は目線を下げ、すぐ戻す。 「藤井って『好き』って言葉にするの抵抗ないんだね」 「好きか嫌いかで聞かれたからじゃないかな」  ホースを巻き取り、あとはじょうろを片付けるだけになった。倉庫へ向かおうとすると、手が空いた真中もついてきた。  帰り際、ためらい気味に真中が口を開いた。 「あのさ。嫌じゃなければ連絡先教えてくれない。藤井の」 「なんで?」 「なんでって……」  なんで、なんて本気で思っているわけじゃなかった。照れ隠しなのかどうかも判別できないほど咄嗟に愚問を返していた。 「嫌ならそう言ってよ」 「嫌じゃないよ。交換しよう」  手をふりあって別れる。正門と裏門、お互い別の門から学校を後にした。
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