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第6話 おはよう
次の日には鬼との一件が学年中に知れ渡っていた。
あの一件が和泉さんと話すきっかけになったんだと思うと突き抜けて嫌な気持ちにはならなかった。
とはいえ、和泉さんとはあれ以来一言も話せていない。
今は昼休み。気づいたら和泉さんは教室にいなかった。三時間目までの各休み時間はきっかけがなくて話しかけられなかったが、この昼休みはチャンスがあることを期待し、和泉さんの帰りを待つ。
教室でおしゃべりしている男子数人の輪に近づく。何人かがちらっとおれを見るだけ見て会話を続ける。誰が途中で入ってきても基本こんな感じだ。別に嫌われてるわけじゃなくても、なんだかちょっと疎外感。ここでノリよく会話に混ざれればいいんだけど、そう簡単に毎回溶け込めるものじゃない。少なくともおれは。
結局、輪の外で耳を傾けているのに居心地が悪くなりその場を離れた。
することもないし和泉さんが戻ってくる気配もないのでとりあえず教室を出る。
あてもなく廊下を歩く。B組の教室を覗いて、しかし入る気にはならずそのまま進む。窓際に並ぶ蛇口を捻り、片方の手を意味もなく濡らした。トイレを素通りし、階段の踊り場を見るともなく見て、向こうから歩いてきた男子とすれ違いざまにC組の教室をちらっとだけ覗いて通りすぎ、D組の前で足を止めた。
教室内には人が大勢集まっていて、ぱっと見では誰がいるのか把握できなかった。扉から顔だけ出すようにして中を覗く。
焦点を奥に合わせていたら、こちらに向かってくる人影が手前に映ったのでそちらに顔を向けた。
後藤実那とその取り巻き二名だった。教室の後方スペースを横に広がって歩く三人。その先には、おしゃべりしている女子二人組の片方の座る椅子が後藤たちの進路上にほんの少しはみ出していた。
はたして後藤はぎっと見下ろし、舌打ちし、椅子の脚を蹴った。
「邪魔、どけよ」
椅子を蹴られた女子は謝りながらさっと前に詰めた。
「あんま調子乗んなよ」
後藤は居竦まる女子の背中にそう吐きつけ教室を後にする。
顔を引っ込め、扉横で三人が出るのを待っていたおれに気づいた後藤は、鼻で笑ってから無言でおれの背中をぽんぽんと叩いて去っていった。
人として後藤のことは嫌いだ。だけど実害を被ったことがないからいまいち憎めない。
その後D組の教室に話し相手はいたけど人の多さに足が向かず、おれはA組の教室に戻った。和泉さんが戻ってきたのは五時間目の授業が始まる少し前だった。
せっかく喋ったことのある関係にランクアップしたっていうのに、これじゃあ宝の持ち腐れだ。せめて挨拶だけでも、そうだ挨拶しよう。挨拶だけでもすればいいんだ。話題がなければ声をかけちゃいけないなんてルールはないんだから。
前日の夜から意気込み、おれはいつもより少しだけ早く登校した。教室に入ると和泉さんもちょうど来たところらしく、机に鞄をかけていた。
とりあえずおれも自分の席に鞄を下ろし、近くの友達に「おう」とかなんとか声をかけてからちょっとだけ遠回りして窓際の先頭まで移動した。横の通路を下っていく。教科書を机に移し替えていた和泉さんが顔を上げた。
すかさず、おれは言った。
「あ、おはよう」
「おはよう」
足を止めず通過。
言葉を交わしたのも目が合ったのもほんの一瞬。
それでもものすごい達成感だった。声をかけるのなんてこれからはイージーだ。
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