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第8話 他人事
和泉さんと話すようになって数日が経ったある日。
人前で感情表現をするようになって話しかけやすい雰囲気が生まれたか、和泉さんに話しかける子がちらほら現れた。個人的な交友関係の変化が、グループ形成がほぼ完了しマンネリ化しつつあった教室に再びよそよそしさをもたらした。
意外だったのは応対する和泉さんのほうだった。話題を振られても言い淀むか、そうでなければそっけない返事をするかの二者択一。質問に「はい」か「いいえ」で答えてください方式であれば成立していても、おしゃべりという意味では成立していなかった。
決して冷たくあしらっているようには見えなかったが、話しかけた子がどう思ったかはわからない。
そんな和泉さんとクラスメイトの距離が少しだけ縮まった週の金曜日。
登校すると、正門前で音楽の沢先生がプランターの花に水やりをしていた。
「おはよう。おはよう」
無視してやるぞっていう意志を前もって準備していたかのように男子三人組が先生をスルーした。
「おはよう」
「おはようございます」
「おはよう」
次の子は挨拶して、その次の子は無視した。
先生は無視されても表情を変えないけど内心どう思っているんだろう。
そして次の子は、おれだった。
「おはよう」
「おはようございます」
挨拶を返すと先生はにこっとした。
無視する理由には照れくさいとか、クールだと思っているとか、ただ単にだるいからとかいろいろあるだろう。個人的には流れ作業感強いよなって思う。ベルトコンベアに乗ってる気分。沢先生の挨拶はそんなんじゃないけど、他の先生は割とそんな調子。挨拶を返しても「あっそ」みたいな顔されたり、ってそれはちょっと大げさか。挨拶しながら目は次の生徒に向いてるみたいな、ぽいぽい挨拶投げてる感じのはよく見る。生徒がなだれ込んで一人ひとり対応できない状況ならまだしも、そうじゃないから流れ作業みたいだなって思ってしまう。
それを理由に無視したことはまだない。代わりにと言っちゃなんだけど、別の理由でなら無視した過去がある。
何人かと連れ立って登校した日のことだ。
そこでは挨拶を返すのはかっこ悪いことだという共通認識と、無視して当然なのだという空気があった。自分が異端かのように錯覚して、少なくとも彼らからすれば異端だと確信し、だから同じように口を開かなかった。目も合わせないように努めた。周囲に合わせるのは特段難しいことではなかったが、自然な振る舞いを抑えこむのは気持ちのいいものではなかった。先生の意識が別の生徒に移るまでのわずかな時間がどうにも気持ち悪かった。
流れ作業の挨拶に応えても気分がよくなるわけではないけど、無視するとうしろめたい思いをするだけだと知った。
教室に入る。出入り口近くの席の今川が、ノートも何も広げていない机の上に一心不乱にシャーペンを走らせている。なんだ、と荷物を置くのは後回しにして近寄り、ぎょっとした。
本来は薄茶色い木目の天板が黒で覆われていた。
「何してんの」
「ん、歌詞書いてる。好きな曲の」
にやつきながら答えた今川は、他にも聞いていないことまで教えてくれた。
歌詞の隣には、今川が好きなアニメのタイトルがいくつも並んでいた。キャラクターの絵も添えたかったが絵は描けないらしい。それから歌詞とアニメのタイトルは無関係で、ただ好きなものを好きなように書いているのだそうだ。
「手まっ黒になるんじゃない」
今川はしばらく言葉に詰まる。
「好きなことには代償がつきものさ」
「にやにやすな」
ぐひ、と半煮えの笑みが返ってきたところで自分の席へ向かった。
休み時間。特にすることなく廊下をぶらついていたらC組の丸山と行き合い、そのままB組前で立ち話になった。
喋り始めてすぐに、そう遠くない場所から笑い声がどっとあがった。A組とB組の間に鬼率いる一団が群がっていた。その中で鬼が背中を丸めて力任せに手を叩いている。
「蛮族め」
会話の声をかき消された丸山が一団に向け吐き捨てた。
「聞こえるぞ」
「構うもんか」
鬼のもとに集まる女子のほとんどはスカートが短い。中でも鬼はひと際短く、短すぎて脚の太さが悪目立ちしている。短ければ短いほどいいという思考に陥っているのだろうか。あれじゃあまるでスカート丈のチキンレースだ。スカート丈で序列を表しているなら、なるほどーと合点がいくがどうなんだろう。
パンツを覗こうとしていたなんて誤解されると癪なので早めに視線を外す。というのは建前で、実際は昼休みの一件がフラッシュバックし、反射的に目を逸らした。
そうして鬼たちに気を取られていると、視界の端をさっと誰かが横切った。それは和泉さんだった。既に一団の前に差し掛かろうとしている。
鬼たちの笑いはおさまっていた。ひっこめた、というほうが正しいかもしれない。嫌な静けさだった。何人かが和泉さんに視線を向けている。和泉さんが通りすぎるのに合わせて鬼が振り向いた。
「ブス」
鬼の口から悪意が飛ぶ。くすくす。
和泉さんは意に介さず教室に入る。
おれはすぐに後を追った。
「和泉さん」
背中に声をかけた。和泉さんは教壇の端で足を止めた。
「さっきの、わたしに言ってたよね」
普段の表情、普段の声音。努めてそうしているようには見えない。
「え……」
「おかしな人」
怒りでも悲しみでも哀れみでもない、少量の呆れだけを孕んだ声で和泉さんはそう言って、教壇から下りた。一歩踏みだし振り返る。
「わたしなら気にしてないから大丈夫だよ」
「え、でも」
「だから心配しないで」
「……わかった」
もっと別のことを言いたかったのにそんな言葉しか出なかった。
心配するなと言われてもな……。
さっきのあれは、たまたま虫の居所が悪くて放たれた悪意とは思えなかった。それって何かしらの理由、おそらく理不尽な理由で和泉さんが鬼たちの標的にされたってことじゃないのか。やつらお得意の仲間外れにして精神的に追い込むやり方は和泉さんには通用しない。であれば何か別の、おそらく直接的な手を打ってくるはずだ。そうなれば今日みたいに無視すればいいって問題じゃなくなる。
心配するよそんなの。なんでそんな他人事のように済ませられるんだ。
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