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第9話 危険な挑発
休み明けの月曜日。
意外にも、心配していたようなことは何一つ起きなかった。
鬼が放った一言、まさかあれは本当に気まぐれによるものだったのでは。よくはないけどそれならそれでよかった。なんて、安心していた翌日のことだった。
朝、教室に入ると何人かの視線が和泉さんに向けられていた。ちらちらと様子を窺うような、心配するような力ない視線。嫌な予感がした。
力みなくまっすぐ伸びた背筋、そこから醸し出される落ち着き払った雰囲気。後ろ姿からはいつもと違う様子は見つからない。でも何かが起きている。
和泉さんの席へと足が向く。じぐざぐじぐざぐ、机と机の間をかき分けるようにして進む。和泉さんの横で立ち止まる。和泉さんは見上げ、いつもと変わりない調子で「おはよう」と言った。
「おはよう。って、これ……」
嫌でも机上の異常が目に入った。ずきんと胸が痛む。
「ああうん。朝来たら落書きされてて」
ブス、キモイ、ウザい、ビッチ、消えろ。太字ででかでかと、それらの文字が乱暴に並んでいる。
おれは振り向き、鬼を見た。他のクラスの女子を含んだ六人で群れている。真中と目が合った。しかしすぐさま逸らされた。他の連中は誰もこちらを見向きしなかった。
「消すの手伝うよ」
文字はシャーペンか鉛筆で書かれていた。消しゴムを取りに戻ろうとすると引き止められた。
「いいの。このままで」
「何か考えがあるってこと?」
「そういうこと」
まあそういうことなら勝手なことはしないでおこう。
「何か手伝えることある」
「そうだな。じゃあ何もしないで」
「え」
「わたしも何もしないから、藤井君も何もしないでただ見てて」
「……わかった」
和泉さんは微笑んだ。
「はい、おはよー」
村田先生が教室に入ってきた。自分の席に戻る。鬼と一緒にいた他のクラスの女子はいつの間にかいなくなっていた。
朝のホームルームが始まる。和泉さんに動きはない。やがて先生が教室から出て行っても和泉さんは動かなかった。
どうするつもりなんだろう。気になるけど、言われた通り何もせずただ見ていよう。
しばらくして村田先生が戻ってきた。一時間目は社会。村田先生の授業だった。
授業が始まっても和泉さんは何もしなかった。先生に相談するでもなく、ただ静かに授業を受けている。
板書が一段落したのか、村田先生は教壇の端に寄って黒板を眺める。それからみんなが板書をノートに書き写しているなか、教科書片手に教室内をうろつき始めた。授業内容に関係あることないこと喋りながらゆっくり歩く先生。その声が唐突に消えた。
顔を上げると、先生は難しい顔をして和泉さんの前で固まっていた。みんなの視線が集まる。
頭の中で状況を整理しながらといった具合に、先生はゆっくりと口を開いた。
「……自分で、書いたわけじゃ」
「ないです」
「……友達が、ふざけて書いたとかじゃ」
「ないです」
先生は顔に怒りをすっと貼りつけ、生徒一人ひとりの腹を見透かすみたいに顔をめぐらす。
鬼はどうしている。頬杖をついて退屈そうにしていた。自分には関係ない面倒ごとが起きたとでも言いたげな様子だ。
「誰だこれ書いたの。いるなら出てこい」
「これを書いた子はここにはいないと思います」
犯人捜しを始めた先生に和泉さんは言った。拍子抜けしたみたいに村田先生の顔から険しさが消える。
「心当たりあるのか」
「ないです」
「どういうことだ」
「落書きの言葉選びが園児レベルです。こんな子どもっぽいことする人がこの学校にいると思いますか」
「それは……」
「最近の園児なめんなよー」
指摘したのは花島だった。みんなの注目がそちらに移る。
ぷっ、と誰かが吹き出した。つられて他にも何人か笑いだす。笑いの連鎖が張り詰めた教室の空気を吹き飛ばす。すっかり気をよくした花島は続けて投げ込んだ。
「頭のいいお猿さんじゃねえの」
ふと見れば、鬼の顔にいらだちがにじみ出ていた。
先生だけは戸惑い気味だった。和泉さんに何やら言って、ほどなくチャイムが鳴った。
村田先生に連れられて教室を出た和泉さんが戻ってきたのは二時間目が始まる直前だった。授業が終わるのを待って声をかけた。
「先生なんだって」
「また何かされたらすぐに言いなさいって」
和泉さんは天板を撫で、それから顔を上げる。
「これ消してくれたの藤井君?」
「うん。あと委員長の飯野さんも一緒に」
「ありがとう。飯野さんにもお礼言わないと」
和泉さんは教室を見回す。飯野さんの姿はない。
机の落書きを消さなかったのは先生に発見させるためだったのはわかった。ああいう行為が行われていることを先生に認知させる目的があったことも。
「消さなかったのって、書いたやつらが次の手を出しづらい状況にするためでもあったんだよね」
「そう。また何かされたら面倒だから」
やっぱり一つだけわからない。じゃあなんで。
「なんであんな挑発……」
「ついね。あんなこと言う予定なかったんだけど」
まあ大丈夫だよ、と自分のことなのに興味なさそうに和泉さんは言って、教室に戻ってきた飯野さんのもとへゆったりかけ寄った。
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