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八.長閑《のどか》
これが最後の晩餐になるのだ。
そう思ったとき、脳裏を過ったのは消えずにいる記憶だった。お長閑そらくこの先も忘れることはできず、ふとした瞬間に刻を巻き戻されるだろう。
それでもなお、彼女を恨むことができないのは、きっと過ごした時間が愛おしいものだからに違いない。
もっと続くと思っていた。
歳月を重ねてもなお、彼女の温もりがすぐ隣にあると思っていた。
それなのに今日、私たちは終焉を迎える。
「先日、プレオープンした際に贈った祝花の御礼状が届いております」
「ありがとうございます。あとで目を通しておくので、デスクに置いておいてください」
「承知いたしました」
そう言って、私は社長室を出た。
秘書室に戻ると大きく吐息する。社長は私よりも七歳若く、他の重役についている秘書はさらに五歳は若い。
どうして私はここにいるのだろう。いや、いさせてもらえるのだろうと常々思っている。
なぜか年下の社長の秘書を任命され、やりづらくて仕方ない。当然ながら秘書室室長と社長の合意の下なので、口出しする権利はない。
唯一の救いは、社長が秘書を連れて出かけることが、少ないことである。
今まで仕えてきた重役は当たり前のように年上だった。同行しても変な気まずさはなく、スムーズに業務が流れていった。
しかし年下の社長は、常に敬語で全くプライベートが見えない。
どう振る舞えばいいのか分からず、半年経った今でも探り探り顔色を伺ってしまう。
社長はそれに気付いているはずなのに何も言ってこない。それがどこか興味がないようにただ手腕だけを求めているようだった。
ビジネスライクな社長は、ある側面では楽でいいが、ミスを犯したときの恐怖は計り知れない。
もしも秘書としての手腕を買われているのならば、相応に体得した技術を遺憾なく発揮しなければならない。その重圧はかつて感じたことのないものだった。
私は誰にも相談できず、ただただ目の前の仕事に没入した。
社長付きの秘書になって、一年が過ぎようとしていた。
梅雨時期で、長雨が続いていた。傘が手放すことができず、レインブーツで出勤することも多かった。
億劫だと思いながらもいざ社内に入ってしまえば、温度調節の行き届いた室内は雨など微塵も感じさせない。
仕事を終え帰宅すると雨に濡れた服を脱ぎ、シャワーで不快さを洗い流した。
明日の仕事の確認も終わり、通販サイトを眺めていた。
特に目的もなかったが、何か目新しいときめきが欲しかった。
自宅と職場を往復するだけの日々は、どこか味気なく面白みもない。通勤経路の駅ビルに立ち寄っても欲しいものが分からず、次第に用事がなければ立ち寄ることもなくなっていった。
画面を見ることに疲れて、テーブルに置くとスマートフォンが鳴った。
表示されている名前を見て青ざめたが、出ないわけにはいかない。
「お疲れ様です、社長。どうかされましたか?」
『……お疲れ様です。自宅の鍵を社内に忘れてしまって、もしよろしければそちらに一晩、置いていただけないでしょうか』
僅かに沈黙が流れる。
情報が処理できず、ただ社長の言葉だけが脳内で反響している。
社長がここに来る、とはいったいどういうことだろう。
事態は飲み込めないが、無下に断ることもできなかった。
「かしこまりました。住所を送るので、近くまで来られた際、連絡をよろしくお願い致します」
『ありがとう、助かる』
通話が切れると静寂が戻ってくる。数分前と同じはずなのに空気が重い。
時刻は午後十一時を回っており、終電も近い。
どうして社長はここを、ひいては私を選んだのだろう。
掃除機をかけるわけにもいかず、乱雑に置かれていた雑誌 だけ書棚に戻した。
時刻が午前零時に近づいた頃、社長は現れた。
「申し訳ありません。私がうっかりしたばかりに」
「いえ、なんのお構いもできませんが、必要なものがあればなんなりとお申し付けください」
「ありがとうございます。今夜は社内ビル点検があり、取りにも戻ることができず困っていました」
「ホテルは考えなかったのですか?」
「あの無機質な空間は、どうにも好きになれません。仕事上不可欠ならば使用しますが、極力避けたいものです」
「あの……差し出がましいのですが、今夜だけは敬語はやめていただけませんか? 気が抜けなくて」
「……分かった」
そう言って社長の口調は砕けていった。それでも綺麗な言葉選びは、育ちの良さが見え隠れしていた。
これまで話す機会がなかったプライベートな部分にも踏み込み、開いていた距離が縮んだようだった。
社長がシャワーを浴びると新品のスウェットを貸した。
自分の服を着ている社長がおかしくて、つい、笑ってしまう。
「そんなに笑わなくてもいいでしょう」
「いえ、まさかこんな日が来るなんてと思いまして」
「ずるい」
そう言って社長は、スマートフォンを手に取った。私には何が「ずるい」のか分からず、小首を傾げた。
役職も就いたある程度年齢がいっているはずなのにまるで幼児のように思えてしまう。
こんな特殊な一夜は、今夜しかないだろう。明日になればきっと元通りになってしまう。
名残惜しくもあり、安堵感もあるこの空間は、かけがえのない思い出である。
それから社長は、何かにつけて月に何度かは、私の部屋に泊まりに来た。意図は読めなかったが、不思議と不快には思わなかった。
それどころか、楽しみにさえしていた。
毎日、会社で顔を合わせているはずなのに飽きもせず、訪れる。
愛着のような独占欲が、徐々に一人暮らしの寂しさを埋めていった。
溺れるように社長を求め、仕事以外の着信を待ち侘びた。
社長と秘書という関係以上の関係になることは、造作もないことだった。
必然のように恋ごとになり、周囲に悟られないよう気を配った。それすらも億劫ではなく、ただ楽しさに興じていた。
穏やかで落ち着いた日常は、クリスマスイルミネーションのように煌めいていく。
このまま続くと思っていた。
敬語ではない社長とプライベートな空間にいる社長。この優位感は誰にも伝わることはない。
それどころか、内に強い灯火を抱き、消えることはないと思っていた、あの頃。
ほんの些細なことで、絶妙に保たれていた均衡が崩れ去るとは、お互いに知る由もない。
数年間の歳月が経ち、関係が変わることなく続いていた。
芽生えた愛情は、仕事上にも現れるようになり、万全のサポートができるようになっていた。
任命されたときとは違う、没入は狂気にも満ちていた。
それを危惧した秘書室室長が私を呼び出した。
「近々、私は別部署に異動することが決まっている。だから後任は君に任せようと思っている」
「私が室長ですか?」
「あぁ、少し秘書業務を俯瞰してみないか。今の仕事ぶりは頼もしい限りだが、刹那的で少し不安にも思える」
実質、これは社長秘書解任である。愛おしい社長のために尽くしてきた歳月が終わろうとしている。
断ればこのまま社長秘書でいられるだろうか。感情で考えてみても答えは出ない。
ただし自分のキャリアと重ねれば、見えきった進路だった。
今の年齢で昇進を断れば、いずれ秘書室以外の部署へと異動させられてしまう。
それならば、まだ社長の近くにいられる秘書室室長になる方が賢明であることは、明白である。
「分かりました。考えておきます」
明言は避けたものの、答えはもう決まっていた。
三つ星レストランの食事へと誘われた。私は嬉々として受け入れ、先に待っていた社長と合流する。
この食事が意図することは、理解していた。
最後の晩餐である。
恋仲が終わろうとしている。
淡く切ない想いが、泡沫の泡となって消える瞬間が訪れようとしている。
「なんだかあっという間だった。あなたが室長になってから、秘書室の一体感が増して推薦した甲斐があった」
「そうですね、やりがいはあります。専属秘書とはまた違った仕事は、勉強になります」
室長の異動が決まったとき、私を真っ先に推薦したのは社長だった。これは先月末元室長が退職するときに知らされた事実である。
どうして社長は私を外したの?
嫌いになったのなら、そう言えばいい。
何度も思ったけれど結局、口に出すことはしなかった。
それはもう私たちには、美しい追憶となっていたからである。
専属秘書から解任され、室長になると社長は、何人かの秘書を兼任させた。
理由は容易に想像できた。一人でこなせる量ではなくなっていたからである。
世界中を飛び回るようになり、企業買収もしながら、会社を成長させていった。
その推進力は計り知れず、一躍日本経済を動かす時の人となった。秒単位でスケジュールは組まれ、必ず秘書も同行するようにもなった。
社長には見えていたのだ。
たとえどんなに私が有能でも一人ではいつか倒れてしまうことを。
他の秘書と兼任をすれば、私がバランスを保てないことを。
焦がれた恋に浸っていては、お互いに壊れてしまうことを。
だからそっと引導を渡し、家に来ることもなくなった。
別に嫌いになったわけではない。
ただ住む世界が違っただけ。後悔も恨みもない。
ただただ長閑(のどか)である。
視界の端に誕生日を祝う光景が目に入る。着飾られた服に渡されたプレゼント、特別に装飾されたドルチェには、幸せの絶頂が垣間見える。
私たちにはあっただろうか。
ふと歳月を振り返ってみると窓から見えるイルミネーションが、感傷に響いた。
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