「おやすみなさい」で始まり、「その想いは海に沈めた」で終わる物語

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「おやすみなさい」 返す気力もないのか。ジンはわずかに頷いたように見えたが、〈休息〉に入る際の機械的反応というだけのことかもしれなかった。彼が台に横たわるとメータの針が振れ、電気エネルギーの発生を示す。子供の頃から見慣れた光景だが、それでもやはり今朝は何も思わないではいられない。 非常灯に照らされて金属の翼が濡れている。夜通し外で働いたせいだ。僕はその翼をそっと拭いてやる。 この町から明かりが消えて今日で四日になる。ラジオは中央都市近くの発電所での事故を伝えた。地球外電力供給機構によればこの町は第四区分、電力供給優先度は低い。 ここは農耕地帯だ。有事に備えて貯蓄された電力は農産工場に吸い取られ、小さな町のインフラは後回しというわけだ。なんとも合理的。合理的すぎて非人間的だ、などという理論的批判はしかし前の四半世紀で出尽くし、議論は一周した感がある。最近では究極的な合理性の中での新しい人間性の模索というのが、学問の一大潮流らしい。 拭った後に残る微細な水の粒子が、蛍光の仄明かりにきらきらと輝く。翼はジンの身体の中でも最も人目を引く部分だが、僕は翼そのものが好きというわけでもない。それでも、こんな時には改めて美しいと思わされる。 明け方の病院の静寂。それを侵して、時代錯誤な紙束を捲る。端が折れたジンのカルテはすぐに見つかった。 機械体でありながら電子アレルギーを持つジンにとって、多分な〈休息〉は毒だ。本当は心ゆくまで休ませてやりたいのだが、医者としては適切な時間を超えないよう管理しなければならない。 「コーリ」 突然はっきりした声で名前を呼ばれて僕は振り向いたが、メータの針は相変わらず〈休息〉中を指している。 「…でも駄目です…わたしが…行かないと」 夢を見ているのだろうか。警察が機械体登録者に協力を要請したせいで、ここ数日ジンは慣れない夜間の力仕事に駆り出されている。機械体は経年による外見の変化がそれほどないはずなのに、眉根を寄せた顔には、どこかこの人が過ごしてきた長すぎる歳月を感じさせるところがあった。 僕は細く息を吐くと椅子にもたれかかって束の間目を瞑る。まぶたの裏の暗闇に、海が焼きついている。夜だ。遠くに漁船の灯りが見える。音もない。黒い海にぼんやりと漂う光の玉。昔はよく家を抜け出して、海岸で夜を眺めた。 眠れない夜を眺めていたら、ジンが隣にやってくる。夜と同じ色の翼が僕を覆って、おかげで寒くはない。翼の温度に包まれて暗闇の中にいると、浮遊しているように心地よい。そうして二人で夜に溶け出していくのかと思えるほどの静寂の後、けれども白い霧の冷たさがその終わりを告げる。 「風邪を引きます」 決まってジンはそう言った。 「もう朝が来ますから」 僕は頷く。ジンは目尻に微かな安堵を漂わせて家の方を見る。僕は子供らしさの仮面を被って彼に笑う。 「ジンがいるなら大丈夫でしょ?」 あの頃僕は自分が生まれついた環境に無性に苛立って、何度も海へ抜け出したはずだったけれど。 夜に溶け出していきたかったのはジンの方じゃないか。黒い翼の輪郭をなくしてしまいたかったのは。機械の体を持つこの人には昔からそんな危うさがあって、たぶん僕はその寂寞が強烈に悲しく、目が離せなかったのだ。 夜の海はそういうものを静かに置くには悪くない場所だった。 しかしそのうち僕はそれでは満足できなくなって、ついにはジンをこんな星にまで連れてきてしまった。 〈休息〉の終わりを告げる電子音が聞こえる。ジンの身体の確かな熱が空気を伝ってくる。 静かに目を開く。そうだ。迷うなんてことは…あってはならない。 とうの昔、地球の時代に、その想いは海に沈めた。
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