Heaven's will

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Heaven's will

神様はインポテンツだ。 「痛ッた……」 口に指をねじこんでまさぐると歯の付け根がぐらぐらする。 デカブツに張り倒されたせいだ。 靴磨きに縄張りがあるだなんて知らなかった。 『目障りなんだよ、よそいけ新入り』 『今度見かけたら商売道具()へし折るぞ』 徒党を組んだ少年たちの恫喝が脳裏に響き、またもや歯の付け根が疼く。 口腔にたまった唾を吸わせれば袖が赤く染まった。罪深い鉄錆の味。 僕はずっと狭い世界で生きてきた。 教会を飛び出して、いかに自分が世間知らずか思い知らされた。少なくとも教会にいる限り飢えとは無縁でいられた。 ここではラテン語の読み書きができても腹の足しにならない。食べるには稼がねばならない。 選択肢は限られていた。体を売るかそれ以外か。ならば迷わず後者を選ぶ。 幸い手先の器用さには自信がある方で靴磨きは向いていた。 しかし娑婆でも年功序列は健在、よそ者はどこでも嫌われる。連中の言い分もわからないではない、ライバルを蹴落として少しでも多く取り分をせしめたいのだ。 壁に縋ってあてもなくよろめき歩く。 同じく靴磨きを生業とする年嵩の連中に追っ払われ、人通りの多い往来には近寄れない。あそこが一番稼げるのに…… 「君、暇かな」 空腹を抱えてとぼとぼ路地裏を歩いていたら、ボロを纏った老人とでくわした。何歳位だろうか……わからない。フケと垢に塗れたいかにも不潔な風体だ。 「頼みを聞いてくれないか」 「……なんですか」 素通りするのが正解だったのに、哀れっぽい声にほだされて立ち止まってしまった。心の中で舌打ちしたくなる。 「代わりに本を読んでほしい」 老人は盲目だった。 白濁した目は瞬きもせず、声だけを頼りに僕を見詰めている。 「前を通る人皆に頼んでるんだが、もう何日も断られ通しでね」 「目が見えないのに通るのわかるんですか」 「気配や息遣いで。君は随分疲れた足取りだ」 「ほっといてください。で、どの本ですか」 すぐに立ち去らなかったのはくだらない同情心から。目が見えていたら無視もできたが、今となっては難しい。そっけなく聞き返したところ、コートの懐から一冊の本を取り出す。 靴墨で汚れた手をモッズコートの裾で拭って受け取ってしまい、露骨なしかめ面で後悔した。 「…………」 聖書だ。 最悪だ。よりにもよってこの僕に? 呆然と立ち尽くす路地裏では、浮浪者が取っ組み合いの喧嘩をし、年増の娼婦が客に尻を突かれ、野良犬が酔っ払いに小便をひっかけている。 向こうでしゃがみこんでいるのは親に捨てられた孤児だろうか、幼い姉妹が身を寄せ合っていた。 「無論ただとは言わない、礼はする。少ないが」 その申し出に心が動いた。正直、空腹で今にも死にそうだ。 靴磨きを店じまいに追い込まれたら、朗読代行でもなんでもしてパン代を賄うしかない。 背表紙の剥がれかけた聖書を持ったまま、まじまじと正面の老人を見直す。 変人には違いないが、無害そうだ。 このご時世に好き好んで聖書を読む人間がいるだけでも驚きだが、装丁の傷み具合から見て特別な思い入れがあるのかもしれない。 仕方なく答えた。 「……わかりました、いいですよ」 「本当かい」 老人に渡された聖書を冷たく一瞥、傍らに返却する。本など開かなくて一章一節残らず暗記していた。 老人の隣に座り、片膝を立てて瞠目。ルカの福音書の有名な記述を諳んじた。 「貧しい人々は幸いである、神の国はあなたがたのものである。今飢えている人々は幸いである、あなたがたは満たされる。今泣いている人々は幸いである、あなたがたは笑うようになる」 よもや耳も遠いのではと疑って、できるだけゆっくりと、一言一句区切って発音する。 老人はうっとりと僕の暗誦に聞き惚れていた。 「いい声だ」 「どうも」 聖歌隊にいた事は黙っていた。忘れたい記憶だからだ。 その後僕は二時間ほど老人に付き合い、思い付くまま適当な個所を諳んじた。 帰り際、固くてぼそぼそしたパンを一切れと小銭を渡された。靴磨き一回分より多い報酬に、ちょっとたじろいだ。 「こんなにもらえません、お返しします」 「いいんだよ」 「ただ読んだだけですよ」 「大勢に声をかけたが立ち止まってくれたのは君だけだ」 大袈裟に感謝されバツが悪い。 しばらく押し問答を続けたが、くれるというのを固辞するのも失礼な気がして小銭をポケットにしまった。 一口齧ったパンは水気が飛んでぱさぱさしていた。まる一日食べてないから有難い。 路地を抜ける際、孤児の姉妹が物欲しそうにパンを目で追ってきた。顔を伏せて見ないふりをし、そそくさと足を速めた。仕方ない、僕だって飢えているのだ。 その日から僕は一日二・三時間、朗読のアルバイトを始めた。 盲目の老人は常に同じ路地裏、同じ場所に蹲り、じっと動かず僕を待っていた。 「よく来たね、さあ座って。今日はマタイの福音書を読んでくれ」 「おおせのままに」 僕の気配を感じると即座に隣を空ける。それ以外に殆ど会話らしい会話はない。時々声がいいとか聞き取りやすいとか褒められたが、どうせお世辞だろうと受け流す。 「君の言葉遣いはとても丁寧だね。このあたりの子ではないな」 「躾の厳しい家だったんで」 嘘ではない、粗相をしたらお仕置きされた。 老人の詮索に気のない相槌を打ち、頭の中の聖書を読み上げていく。 僕にとってはただただ退屈で苦痛な時間だ。 「自分を愛するように汝の隣人を愛せよ」 詭弁を弄すると胸がむかむかする。 聖書に綴られているのは全部偽善者の戯言だ、あそこには本当のことなんて何もない。 神様の言葉は誰も幸せにしない、僕も彼も誰も救わない。 不能で無能な神様が戯れにお作りあそばされた不浄な世界では誰も彼もが苦しんでいる。 厭世的な思考に毒され、とても惨めになった。 教会を嫌って出てきたくせに聖書の朗読で糧を得ている矛盾に、凄まじい嫌悪感とそれを上回る罪悪感が募りゆく。 膝を抱えてマルタの福音書を暗唱し終えた時、ふと疑問に思って聞いてみた。 「おじいさんは神を信じてるんですか」 「ああ」 「何故?あなたから光を奪ったのに」 残酷な質問だった。知っていた。わざとやった。僕は最低だ、傷付けてやろうとした。本当は聖書なんて読みたくない、思い出すだけで吐き気がする、でもパンがもらえるからやった金が欲しくてやった一切れのパンでプライドを売った、それが僕だ。 僕の質問に老人は濁った瞳を虚空に向け、至って明快な回答をくれた。 「家もない。友もない。家族もない。ならせめて、神様くらいはいてくれたっていいとは思わんか」 僕は黙り込んだ。 老人の発言の意味をよく考え、正しさを見失った。 「聖書の朗読は休憩だ。君の目に見えるものを教えてほしい」 「路地の光景を……ですか」 突拍子もない願いに面食らい、殺風景な路地を見渡す。 相も変わらず浮浪者が喧嘩をし、年増の娼婦が女衒に髪を掴まれ、野良犬が酔っ払いに小便をひっかけている。幼い姉妹は飢えていた。 言葉に詰まって見下ろせば、老人が持った聖書から古い写真がはみ出ていた。 心を決めた。 「親子連れが歩いてます。茶髪に青い目の母親と黒髪に黒い目の父親。真ん中で息子がはしゃいでます。仲良く手を繋いますね……これから家に帰るのかな。今、母親が子供の頭をなでました。父親が笑ってます。すごく安っぽくて、ばかばかしい位幸せそうだな」 すくい上げた写真には夫婦と子供が写っていた。男は若々しく目の焦点が合っている。老人が失ってなお手放せずにいた過去の断片。 老人は黙って僕の語りに耳を傾けていたが、やがて緩やかにこちらを向き、しんみり呟く。 「優しい子だね」 ポケットから今日のパンと報酬を取り出して握らせてくる。 去り際、幼い姉妹はもう目を上げもしない。僕は三分の一だけ残し、パンを全部やった。 姉妹の顔が輝いた。 その後も老人のもとに通い続けた。 時には頭の中の聖書を読み、時には乞われるがまま風景を代弁し、偽りの優しい世界を説いた。 「イエスは彼に言われた。あなたは私を見たから信じたのですか。見ずに信じる者は幸いです」 浮浪者と娼婦はいなくなり、酔っ払いは凍え死んだ。姉妹は物乞いの場所を変えたのだろうか。 親切な人に出会えればいいと、祈るのは偽善だろうか。 ある日の事、靴磨きの少年たちに絡まれた。 以前から僕を目の敵にしていた連中だ。 「街から出てけって言ったろ」 「ッ、がは」 悪意と嘲笑が渦巻く中、羽交い絞めの姿勢で腹を殴られた。 デカブツが僕の前髪を掴んで顔を起こす。据わった目には憎悪が滾っていた。 「よーく見回してみな、靴磨きは間に合ってんだ」 「隅っこに一人増えたってかまわないだろ」 「わからねえヤツだな、これ以上はいらねえ。稼ぎてェなら口と尻を使え」 彼が怒っている理由は簡単に見透かせた。わかりやすい態度がおかしくて、口元が愉悦の弧を描く。 「主よ、兄弟がわたしに対して罪を犯した場合幾たびゆるさねばなりませんか。七たびまでですか。イエスは彼に言われた。わたしは七たびまでとは言わない、七たびを七十倍するまでにしなさい」 「は?何だいきなり、頭おかしいんじゃねえか」 「君も七の七十倍の寛容さを持てってことさ」 たじろぐデカブツを平然と見返し、舎弟には伏せていた本音を意地悪く暴く。 「僕の腕がいいから妬いてるんだろ。商売上がったりだもんな、お客をとられて可哀想に」 「ッ!!」 図星を突かれて恥をかいたデカブツが、僕の頬と額に靴墨を擦り付け大きなバッテンを描く。荊の冠改め靴墨の烙印。 「仲間に入りてェなら誠意を見せろ」 デカブツが鼻先で凄み、舎弟たちに命じて僕の頭を押さえ込む。 嫌な予感がした。 案の定、目の前でズボンを寛げだす。ペニスは赤く勃起していた。 「しゃぶれ」 「誰、が」 「素直に口開けねえと靴墨全部突っ込むぞ」 左右から伸びた手が上半身をひん剥き、貧相な胸板や痩せた腹に靴墨を塗りたくっていく。 「んッ、ふ」 真っ黒い指で乳首を揉みこまれ、喉の奥から甘えるような声が出た。 「女みてェな声あげて……いいのか?」 限界だった。 「っ、コイツ!?」 「逃げたぞ追え、散開して挟み撃ちだ!」 死に物狂いに暴れて羽交い絞めを振りほどき、上着を押さえて逃げ出した。 靴墨で辱められた身体が火照りを持て余す。 無我夢中で路地に駆け込み、盲目の老人のもとへ急いで……絶句した。いない。消えてる。 「ここにいた人は?」 近くを通りかかった男に尋ねれば、酒と薬に澱んだ目で無関心な返事をよこされた。 「ああ……今日の明け方共同墓地に運ばれたよ。酔っ払いに殴り殺されたとかで、結構酷い有様だったぜ」 言葉を失い立ち尽くす。 老人が座り込んでいた場所には手垢の染みた聖書がおかれ、地面に落ちた写真には運び手のものだろうか、泥だらけの靴跡が付いている。 腰をかがめて写真を拾い、丁寧に泥を払って……破り捨てた。 「ドン詰まりだな」 路地の入口を逆光に塗り潰された影が塞ぐ。土地勘のある少年たちに先回りされていた。 結局の所、神様はインポテンツだ。 誰も救えないし救わない。 それから起きた事はあまり語りたくない。さらに暗く細い路地に引きずり込まれ、靴墨で体中にバッテンを描かれた。 壁に向かって頭を押さえ込まれ、尻の奥にまで靴墨を塗りこまれた。都合何人に犯されたかわからない。 少年たちはかわるがわる僕の背にのしかかり、勝手に果てた。 「ッあ、ンぐ、ぁっあ」 尻から溶け出た靴墨が内腿を伝い、気色悪さに鳥肌が広がる。頭の中にもういない老人の声と自身の朗読の声が殷々と響く。 「ぅぁっ、ンゥっ、ぁっぁぁッ」 尻に出たり入ったりする赤いペニス、グチャグチャ中をかき回され悦楽に溺れてゆく。痛い苦しい早く終わってほしい、なのに気持ちよくて涙がうっすら滲む、奥まで突かれてじれったく腰を揺する、肉を肉で埋め合わされ潤んだ声が止まらない、身も心も汚れていくのが神様への叛逆みたいで楽しい、少年たちが僕を蹴って這い蹲らせ口に靴を突っこんでくる。 「!ッぁふ、はッ」 「乳首にかさぶたがある。変態に蝋でもたらされたのか、大人しそうな顔してとんだスキモノだな」 「さわ、るな、ぁぐ」 乳首のかさぶたを掻かれて甘い痛みに仰け反る。 「食えよ、餌だ」 「ふぅっ、ぐ」 頭を踏まれて泥を食わされた。靴紐で後ろ手に縛られ、顔と口だけ使って汚い靴をしゃぶらされた。 「けはっ、かはっ!」 「きったねぇ」 途中で吐いた。胃液しかでない。靴紐が手首を締め上げてキツい。顎が痺れる頃に漸く解放され、ぐったりした身体を横たえた。 「さすがに懲りたろ」 「案外具合よかったな、共同便所にするか」 事を終えた連中が高笑いで去った後、往来から子供の笑い声が聞こえた。 ズキズキ痛む体を引きずって光の方へ向かうと、あの幼い姉妹が身なりのいい紳士に手を引かれ、明るい笑顔で歩いていた。 姉妹が連れられていく建物を見上げ、希望的観測は打ち砕かれた。そこは売春宿だった。 「ははっ」 三分の二の施しの報いがこれかよと、絶望に乾いた笑いが漏れた。 自分の行き先を知ってるのか、知っててなお笑っているのか、少なくとも今目の前のあの子たちは幸せそうに見えた。 成す術なく遠ざかっていく姉妹の背中を見送り、地面に両手を付いてうなだれ、脳裏に浮かんだ言葉を紡ぐ。 「偽善者よ、まず自分の目から梁を取り除け。そうすれば、はっきり見えるようになって、きょうだいの目からおが屑を取り除くことができる……」 道端で息絶えた老人は最後まで天のご(Heaven's)意志(will)とやらを拠り所にしていたし、彼の信仰は尊重したい。 だから僕は、皮肉をいうだけにした。 「やっぱりあんた無能だよ、神様」
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