神としての仕事

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神としての仕事

 ミヅチ――蛇神としての私の仕事は驚くほどに少ない。  山の中合にある私の神社を参拝する者が少ないからだ。精々が神社巡りを趣味としている者か、大晦日から元旦にかけて熱心に願掛けする参拝者程度で、平時は閑散としたものだった。  主とした神主が居なくなったのはいつだったか、兼務で訪れる神主により定期的に清められてはいるが、木の葉が参道に降り積もるのを防げるほどではなかった。  色とりどりの落ち葉を眺めるのは風流であるけれど、参道が汚れると私の身体が汚れたような気がするので、たまにばれないようにため息で吹き散らしている。  そんな風に月日の半分ほどの参拝者が来ればましな日々は、酷く退屈で寂しいものだった。 (肝心の願いごとの内容さえ、代り映えしないしね)  最初の頃は真面目に聞いていた参拝者の願い事も、今はもう話半分でしか聞いていない。  願い事の9割は健康祈願、家族繁栄、学業成就など。  そもそも多くて10程度に大別できる内容に目新しさなどあるわけがなく。  さらに言えば、常連となった参拝者の願いは、この神社に通う身体的、精神的余裕がある時点で既に叶っていた。  私にできることはその後押しくらいだった。  これはまあ、私だけではなく、神様業全般の話でもあるのだけれど。  要は神様業は、人でいう金融業の感情版なのだ。人の負の感情に徳を融資して、成就して溢れた正の感情が神様の徳となる。  ただ、金融業と違い、徳を積んだからと言ってそうそう得があるわけでもない。  単純に叶えられる願いが増えることと、後は神無月に神同士で集まったときに、お気持ち程度に周囲からの扱いが良くなるくらい。  前者はともかく、後者は私のような下っ端神にはどうでもいい話だった。  そうやって、日々のやりがいがたまに舞い込む恋愛成就の祈願(人でいう恋愛ドラマを見るようなもので、神は皆恋愛成就の祈願が好き)しかなく、本格的に暇を持て余していた頃に、私はソウジと出会ったのだった。
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