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N˚.1 < Erster Akt.:きょうこ【第一幕】 >
このクソ素晴らしき世界。
Serenade No.13 / Eine kline Nachtmusik. N˚.1
< Erster Akt.:きょうこ【第一幕】 >
…………………………
──── この世の果てまで、私たちはいくんだ。
高校二年生の秋、十月。
小説に出てくるような情景だった。低い空に夕陽が浮かんでいて、オレンジ色に染まる教室がはじめて美しいと思ったんだ。あたしたちは気温や体温以上のあたたかさを持ちより、差し込む光のなかで影として存在している。
「好きです、大好きです……っ!わたしと一緒に………っ」
その言葉に唾を飲み、喉が鳴る。あたしはいまどんな顔をしているだろう。きっと目を見開いて『驚いています』という表情をしているに違いない。言葉の主である「せつな」は、顔を涙でぐちゃぐちゃに濡らしていた。何度も、何度も、カーディガンの袖口で拭うのだが溢れ出る量のほうが多いらしい。全く泣きやむ様子のないきみを、やさしく抱きよせ「そう……なんだね。ありがとう」と言うと、余計に泣きじゃくるから慌てて言葉を付け足す。
「歩くかい?」
あたしの身長が平均より高いのもあるだろうけれど、きみの身長も平均のそれより低いから、かがんで覗き見ないとわからない、答え。そこにあったのは、さっきよりもぐちゃぐちゃになった顔だった。それにまた困り、笑って、頭を撫で、より強く、深く抱きしめたんだ。
あたしが………あたしなんかが、こんなにも想われる。
「まったく………度胸があるのかないのか。きみは泣き虫なんだね?」
「たかはしさん、ごめんね……?ごめんね?」
「きょうこでいいよ」
この“せかい”は、あたしの知らないところでまわっている。
だから、こんなことくらいでは、あたしたちのことに気づきやしない。
今日、生まれてはじめて“こころ”から好きと言われたと感じた。きみの言葉が体の奥深く“こころ”の真ん中に響くから震える。その言葉や想い、それらすべてがしあわせなことのはずなのに、悲しい感情で胸が締め付けられるのは………きっと、きみの想いが尊く、重さがある想いだからだ。
学校を出るころには、高圧電線の鉄塔が建てられた稜線の向こうに夕陽が落ちていて、空の色と空気の温度が失われていく途中だった。光が閉じて紺を塗り、夜になりゆく。宇宙にまで繋がっていると再認識する空に星がまたたいていた。ひとは星という、ちいさく存在し、揺らぐ光を天に昇ったものや神々、また目的地までの道導として信じ、絶対なのだと崇めた。触れたこともないし、実態が何かをも確認したことがない。そんなものを絶対なのだと信じられたのだ。あたしにも、あの弱々しく光る点ですら揺るぎのないものとして信じる強さがあったなら………あたしは、もっと。
もっと、この“せかい”のことを…………。
すこし顔を上げて空を見ながら歩くあたしの右手の小指に、あたたかく、くすぐったい感覚がして視線を落とした。きみのちいさく細い指があたしの手を不器用に探り、求め、からめ、手が繋がれる。きみのあたたかさと行動は、あたしを地上に繋ぎ止めようとしているみたいだ。耳まで真っ赤にしたきみの横顔に、潤んだ大きな瞳とちいさな口が三日月になっていて「しあわせだ」と言いたそうだったから、あたたかい気持ちになる。どうして、きみみたいな子があたしなんかを好きになったんだろう。あたしは粗暴で冷めていて、疑うところからしかはじめられない。きみみたいなひとに愛されるような人間じゃないのに、きみは「好きです」だなんて言う。それが不思議で仕方がなかった。
「信じてもらえないと思うけど……その………、
あのね?
一目惚れ………なんだ。
わたしも……ね?一目惚れどころか、誰かを好きになるのも初めてでっ、
だから……………しばらくしたら、気持ちが落ち着くかもしれないって、
半年、待ってみたのだけど………。でもっ……でもね?
気持ちは大きくなる一方だったから伝えることにしたんだよ?
ごめんね?こんなの変だよね?こんなの……。
でもっ…………でもね!
でもね。
こころから好きだと思っているのは、
嘘ではないからっ」
ちいさなきみの体が大きく空気を吸いこみ、目を閉じて振り絞るように「おねがいっ、信じてっ!」と言ったのだが、声は掠れていて、辛うじて言葉の上辺だけをすくったかたちが保っているものだった。きみの眉が不安気なかたちをし、唇を噛む。あたしの目を見るきみの瞳から一度、視線を離し考え、またきみの瞳に戻すと見つめていた瞳と三日月がなくなっていたのだ。
「一目惚れ………とか信じられない……よね?
あのね?
たかは……きょ、きょうこちゃんはね、
強くて、かっこよくて、しなやかで…………、
それと、すこし……。
うん……かわいい、と思う
そういうの……全部が好き…………なんだっ」
きみのちいさな手が、あたしの大きな手を強く握る。あたしに向けられた「かわいい」という言葉に首を傾げ、その意味を考えてみた。その言葉は、あたしが粗暴で冷たくなった………そんな前のことに、まだあたしは固執している。きみの瞳が濡れはじめ雫を落としそうになり、うつむいて、ちいさな手が熱く汗ばんでいく。その仕草や表情から言葉や想いが本物だということは痛いほどわかる。きみは空に浮かぶような、ゆらゆらと揺れる星だ。あたしのことを「好き」だと言った星だから、あたしの確かな指針でいて。ちゃんと、あたしが「ここにいる」と教え続けていて。わがままだと知っていても、きみに願うよ。
あたしの目の前で対になる星として輝いていて、おねがい。
小説のような出来事が起きていた日。
あたしの書く小説にはいない、純粋な光に見つけられた星が輝き始める夕方。
高校二年生の冬、十一月。
せつなと紡ぐ日々は、ひと月半を過ぎた。このひと月半の間は、ふたりがふたりのためにいなかった時間を埋めるように過ごした。一緒に登下校をして土日のどちらかに会う。寝る前には必ず「おやすみなさい」と、きみが電話をくれる。すこしでも距離が縮まるように、互いが知らなかった互いを知るために、互いの時間を分け合った。
暖房で温められ膨張した空気を閉じ込める教室で、物理の教師が何の説明もせずに記号と数式の羅列を板書していた。あたしたち“こども”は列挙されたそれらを文句ひとつ言わずに書き取っていく。あたしはここで、ひとつも取りこぼすことなく、こなさなければいけない。
この記号たちと生きる術の関係はわからない。でも、きっと………うまく生きていくために必要なことだから、すこしも踏み外すことがあってはならない。だから、板書された記号や式が予習していた範囲で連なっていくことに安堵していた。ふと窓の外を見ようと視線をずらすと、今日も教室の窓枠にはめ込まれた薄いガラスが、“せかい”から守ってくれている。そして、その窓の手前に、ちいさな温度が存在している。きみは相変わらず泣き虫だ。ちいさな気持ちの揺れに涙がこぼれる。あたしが貸した漫画や小説、一緒に観に行った映画や舞台。帰り道にいた保護活動のゲージに入れられ母親を呼ぶ、やせ細った子猫。気がちいさく、やさしいきみの瞳に映る“せかい”の、どこかに涙の跡がある。きみと付き合ううちに分かっていくことが、あたしを楽しませていた。
きみは、か弱いのに、むきになると譲らない。すぐに拗ねて意地をはるくせに怖がり。言葉で伝えるより頰をふくらませて抗議し、そのくせ顔色を伺いながら、ちいさな口から出る口癖は「ごめんね?」。いつも、たどたどしく出てくる言葉の端々に疑問形がいる。
目の前にどうしようもなく広がる“せかい”に現れたきみは、あたしがひとりではないと教えてくれる星だから、そこで瞬いていて。目が合うだけで桜色に微笑むきみがいるから、あたしなんかでも、やさしい気持ちになれるんだ。
こうして、今日も“せかい”は相変わらずまわっている。
あたしたちは、まだ“せかい”に見つかっていない。
校内にチャイムが響き、すべての授業が終わったことを知らせた。机から解放され、本来の温度を取り戻していく生徒たちが賑やかな放課後を始める。その雑音のなかを、やわらかく跳ねるやさしい音が、とっとっとっとっ、と弾んだ踵を鳴らして向かってきた。青色の鞄とアイボリーのキャンバスバッグを持つ、きみ。
「あたしが遅くなりそうだったら先に帰っているんだよ」
「うん。長く待ちそうならそうするね?ごめんね?」
疑問形の言葉たちを生みだす、きみの頭に、ぽんっ、と手を乗せ、伸ばすことにしたという髪を雑に撫でると、とろけそうな笑顔で照れるのだ。そして、せつなは美術室へ向かい、あたしは部室へ着替えにいく。こうして、あたしたちの放課後がはじまる。
空気が冷却され密度が高くなった冬空の下をトラックに引かれた線に従って、ぐるぐると走っていた。冬の空気は「きん」としていて気持ちがいいから好き。こうやって身体を動かすのも好き。汗を流すのも好き。ちいさなころから大好きだ。
秒針を刻み、リズムよく呼吸する。調子を乱すことなく、脚を等間隔に回し続け、前へ、前へ、蹴り進んでいく。何度も繰り返す景色を眺め、後ろに束ねた長い髪が冷気と一緒に跳ねて、揺れ踊る。
『運動をするんだから、その長い髪を切れ』
何度も言われた言葉たちに「はーい」と返事をしながら無視をすることを覚え、髪を切ることは考えなかった。あなたたち“おとな”が使う言葉の真意が分からないんだ。長い髪が不快に映り、それを切らせるために使った言葉なら、あたしの覚悟に気安く踏み込み、一方的に否定したことになる。だから、何度も「なぜ、髪を切らなきゃいけないんですか?」と聞いた。だけど、そこに納得のいく『運動をすることと、髪を短くすること』の説明ができる“おとな”がいなかった。だから、重たい不信感だけが沈澱していき、たたみかけるように紡ぐ『従わせる為の言葉』たちが、“こころ”の扉に付いている蝶番を鈍く錆び付かせていった。納得するまで髪は切らないと決めた中学二年生の立秋に、
副キャプテンとレギュラーを失った。
『今日子さー、監督に逆らわなければレギュラーくらい復帰できるよ?』
『試合に出れない子もいるんですよ。高橋先輩みたいなイタイ主張は正直引きます』
『きょーが入ったら、もうちょっとチームが機能するんだけどなあ。髪さー、切ってよ』
『ちょっと上手いからって、特別な感じ出そうとしてる?』
きっと“せかい”は、あたしに正しさというものを履き違えて覚えさせようとしているんだ。正しいとか、正しくないとかを考えられると“せかい”にとって都合が悪いんだろう。白と黒で分けられることが多くを支配しているのに、その他、雑音として片付けたい色が現れると困る。白と黒で分けられる価値観は、ひとがまんべんなく、まあまあな、しあわせを手に入れる方法なんだろう。それを根底から否定はしないけれど、そんな“せかい”だからこそ、自分がどう感じ、どう選択し、どう生きていくかが大切なんだと思う。ちゃんと選択をするために白に近いグレーも、黒に近いグレーも、自分で判断して選んでいきたいのに“おとな”たちはそれを許さない。きっと“こども”のうちから白黒の“せかい”に疑問を持たないように、繰り返し、繰り返し、刷り込んで思考が停止するまで“矯正”する。
「どうして、髪が長いだけでハンドができないのかね……」
呟いた言葉は冬の空に浮かんだ白い息と一緒に消えた。本当にどうしてなんだろう。ハンドボールをすることだって、ただ強くなることと上手くなること以外は許されないのはどうしてだろう。ただ、スポーツとしてプレーし、動きの精度を高めていって、身体を動かすことができれば充分だというのに、あたしの話に耳を貸すことすらしてくれない。強くなるだけの練習なんてしたくはないし、いろんな戦術とかプレーを楽しむことが許されないなんて、そんなのは間違っている。
「よし!上がれーっ!ストレッチと水分補給忘れるなよー!」
はー……っ!
何度も繰り返していた景色を止めて膝に手をつく。足元を見ながら呼吸をする視界に、ぱたっ、ぱたっ、と、汗が落ち、グランドに点々の滲みをつくっていった。熱く、すこし早い調子だった呼吸が整いはじめ、深呼吸をしようと見上げた空が大きな口をあけて、堕ちてくる人間を飲みこもうとしているように見えた。
────はやく、こっちにおいで、って。
「ふざけるな、あたしはまだ……」
目を細め、熱い息を吐くと白い水蒸気が空に届く前に弱々しく消える。
「気持ちいーなー」
ウェアの袖で汗を拭い、ふー、と大きく息を吐いて、腰に手を当てグラウンドを見渡し、トラックに目線を落としたとき、あの感じが意識の底にあると気づいた。あの後にある、ぼうっとした感じに似た思考の鈍さと霧がかった意識だ。やがて、首筋を伝う汗が肌を冷やして、あの感覚を完全に目覚めさせる。この感じ…………思い出したくないのに、あたしの身体は本当にどうしようもない。ふっと意識が引き込まれそうになるから必死に抵抗をする。せつながいるのに、こんなの………思い出したくないと思っても、身体が快楽を覚えているから感覚にムズムズする。
馬鹿だ、あたしは。
去年の夏。
エアコンの効かない部屋で彼に抱かれていた。
ふ……あっ、ぅ、は。
はっ。
はっ、ぅ、ふっ。
首筋、胸元、脚の付け根がひどく熱い。受ける熱を重ねるごと、さらに熱を溜め込んでいって、汗を流し、紅潮した身体で激しく動く熱を受け止めた。せつなと歩く前にも恋人がいる時期があった。中学三年生と高校一年生のときに、それは突然やってきて、突然去っていく。男女が交際し、性行為という意味を理解することなく、衝動で行為をする。求められることに応えただけだと思い込んでいたから間違った。男の子があたしを求めることが、嬉しくなかったわけではない。ただ、それ以上も、それ以下の感情も湧かず、なんとなく抱かれた、だけ。彼の想いなんか知らずに抱かれた、だけ。知識で『男女のそれ』を知っていたから入れた、だけ。
「痛いよう」
違う、痛いのは身体じゃない。
こころ、だ。
この行為が持つ身体的な機能以上の意味を理解していなかった。だから、彼が求める数に比例して行為を終えたあとに、どんな顔をすればいいのか分からなくなっていく。あたしの“こころ”は置いてきぼりに求められても、身体は満足していたから不満や嫌な気分にはならなかった。彼の想いを受け止めるために身体ではなく“こころ”を開いていなかったから、身体のなか、奥に、奥にと求め、必死に身体を動かす彼が、くだらない生き物に見えてきて、ある時、言ってしまった。
「同じことしかできないね」
彼の色が失われ『言ってはいけない言葉』だと分かり、慌てて「あ、ちがう」と罪を重ねる。生ぬるい空気が漂う部屋に、ちいさく乾いた笑い声が虚しく響いて、つい二十秒前までの熱がなくなり、一所懸命に奥に届こうとしていた身体が、だらりとシーツに落ちそうなくらいまでうなだれた。
「やっぱ、おれ………下手かな?うん、まあ……ね。おれ、今日子がさ、初めて……だからさー」
「や、ごめん。そうじゃなくて………っ!」
押しつぶされそうな気持ちに慌てて自分を守るためだけの言葉たちが、いちいち彼の胸にナイフを突き立て、無邪気にゆっくり深く刺し込んでいき、残酷に傷口をえぐり、微笑み、楽しむが如く間違った言葉を連ね、裂いていく。
「なんで謝んの?ははっ、おれのこと馬鹿にしてる?
それとも……、
なんか、同情ってやつ?
……今日子のさ、男事情なんて知んないし、
おれよりケイケンが多いのかもしんないけどさ、
おれは初めてなんだ、
………くそが」
たぶん、はじめてひとの尊厳を傷つけた瞬間だった。大きく開いた瞳孔が上手く絞れなくて、視界が嫌に明るい。目に映るすべての色が単調になり平面になっていく。息を吸いこむと、ひゅーっ、と締めつける喉が音を立てる。
「ごめん!悪いっ!『くそ』は言っちゃいけなかったな!悪い……っ」
「いやっ!あたしが、そのっ…………、あたしが言いたかっ……」
あたしの声を掻き消すように大きな声で、
「おれはさーっ!今日子と違ってモテねーし!
アタマも悪いから、うまく言えねーけど!
どんなに自分が気に入らなくても…………、
言っちゃいけないことはあると思う。
ごめん。
なんだか色々、
色々、さ?
おれのこと、とか、
全部、忘れて」
はじめて、ひとを壊した。
毎日、彼から送られてきていたメッセージや電話の着信で小刻みに震えていた機械は、ただの板になり、学校では目を合わせてくれることもなくなった。向けられる言葉もなくなり、彼に向けた言葉にも応えてくれることがなくなってしまった。彼は彼の“せかい”から、あたしを消したのだろう………いや、消そうともがいて苦しんでいたのかもしれない。やがて、学校中に「別れたらしい」という話が伝わり「やっぱ、高橋の食って捨てるって噂、本当なのかー」という噂まで聞こえ始めた。そんな噂が立っても仕方がない。快楽だけを味わい“こころ”はそこになく、都合よく求めていたのは…………あたしだ。純粋に好きなひととしたいと想う気持ちを、自分の疑問が解けない苛立ちで壊した。
はー………っ。
なんで…………………こんなことを何度も思い出してしまうかな。まるで、自身の経験を消化しきれない小説家が黒い霧を掻き分け、たどり着くまでに消化するため、何度も作品に取り入れるみたいだ。嫌な想い出のはずなのに身体は強い快感を覚えていて、思い出し、感じ、ぐだぐだになる。罪悪感に似た何かが、あたしの“こころ”の底に溜まった泥を支配していく。
胸が苦し。
「……つなにあいたいなー」
掠れた言葉が、空に堕ちていった。
…………………………
このクソ素晴らしき世界。
Serenade No.13 / Eine kline Nachtmusik. N˚.1
< Erster Akt.:きょうこ【第一幕】 >
Ende.
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