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N˚.4 < Erste vier:きょうこ【第四幕】 >
このクソ素晴らしき世界。
Serenade No.13 / Eine kline Nachtmusik. N˚.4
< Erste vier:きょうこ【第四幕】 >
…………………………
ガスコンロで沸点まで温められたお湯を粉砕されたコーヒー豆に注ぐ。ドリッパーから苦味と香りを抱えた雫が、ぱたぱたと落ちるとき、一瞬、きらっと光がはねた。それが、なにかの象徴のように思えて、考えこみ、すこしコーヒーを溢れさせてしまう。部屋に戻って、熱いコーヒーをひと口。椅子に深く座って、また、ひと口。参考書を見ても、うまく頭に入ってこないから胸に抱え目を閉じ、天井を仰いだ。
この「せかい」から、つぎの「せかい」に飛び出るとき、あたしは公立大学に受っていなければならない。それから、きっちり四年で、またつぎの「せかい」へ行かなければならない。たとえ、つぎの「せかい」に行くための問を解いたとしても、答え合わせを求めることなく、不安を抱えたままであっても、出された問には詰まることなく答え続ける。どこが及第点で、どこまでやれば満点なのか知らされない不安のなかで問答はつづく。すべての解が教えられるのは、たぶん最期だ。
あたしが最期を迎えるとき、囲むひとたちと送ってきた日々に思うことが答え、のはずだ。
壁の向こうから、ぽそぽそ、と、弟と彼女が会話をしているあたたかい温度が伝わってきていた。壁の向こうには、しあわせがあるみたいだ。弟の彼女は満点どころではなく、お釣りを出さないといけないんじゃないだろうか。あんなにかわいくて、純粋そうな女の子が隣にいてくれるなんて素敵なことだと思う。閉じていた目を開いて温度の感じる壁へ視線を向けた。その壁にかけられた、せつなが選んでくれた服。もし、いま………この服を着て、きみのもとに向かったなら、大きな瞳を、さらに大きくして、息をとめ、喜ぶだろうか。
………きもちわるい。
その表情は冷たく、嫌悪を抱いて言葉にした。
あなたは、汚れているから、
こっちに、
来ないで。
せつな、きみがあたしに求めているものって…………。頭の後ろ側で、あの日の電車で、まっすぐな光を向けた瞳が浮かび、胸にある直径2センチメートルのきみが急激に熱を上げたから、そこにふれる。
「……っ」
すう、と大きく息を飲み込んで、ゆっくり吐いた。
馬鹿か、あたしは。
なにを期待した。
ざわざわと脈打つ気分と感覚を紛らわそうとカレンダーを見て、最後にきみと会った日付を撫でる。なんだか、すごくきみに会いたいんだ。会わなきゃいけない気がするんだよ。なぜかは説明できない、理由は分からないんだ。ほんとうにおかしいけれど…………ただ、何かを確認したいんだ。それが何かもわからないんだけど、ただ、
「あいたいなー……」
あたしの身体の中心にある直径2センチメートルの熱と、からっぽの空間がざわざわするから埋めてほしいんだ。毎日、きみから贈られる無機質な画面に浮かぶ十六進数のラブレターが、あたたかく、きもちが伝わってくるような気がしていて、毎日、電子音に変換された符号がスピーカーから流れ、それが偽物のきみのこえだと知っていても、本物のこえを耳もとで聞いているようだから「こころ」を揺らす、きみが選んだ言葉にふるえる。
なのに、
なんで、
こんなにも埋まらない?
なんで、
こんなにも、
苦しい思いをする?
このままでは気持ちに押しつぶされ、参考書や教科書に書かれた「せかい」に必要な知識を学べないと、気分転換にタブレットのテキストアプリを立ち上げた。そこには、あたしが文字で創造した、あたしのせかいが広がっている。画面のなか、そこに悠々と立ち、せかいを見渡すきみがいる。恐怖にすくむことなく躍動し活躍するきみがいる。背がちいさく泣き虫だけど、おおきな勇気と強い「こころ」をもったきみが、せかいを知っていく。あたしはきみとせかいを歩いていきたい。こんな話を、きみは笑って聞いてくれるだろうか。あの大きな瞳を輝かせて「こころ」で答えてくれるだろうか。
机の引き出しに入れていた、次に起こる回想。きみが立ち向かい、学び知るための困難を書いたメモを取ろうとして、手が引っかかった。ノートの間に挟んでいたメモが、ひらり、床の上に細い足で降り立ったとき、きみが選んでくれた服が、
いやらしい声をあげた。
ちいさくきこえる、それら。
それが、なんなのか、あたしはしっている。
ん。
は、
は、は……あ。
…ちなくん……、
ね………?
もう、
………ね?だいじょ…ぶだよ?
だから、ね……やく…
どれくらいあたしは、そのこえにかたまっていたのだろう。きみに似た、かわいらしい女の子は、いやらしく歪み、乱れた顔を平気で見せ、まとっていた幼さを簡単に脱ぎ捨てて、おんなとして、もとめる。ねちっこい声をあげて、すこし、何かが擦れた音がしたあと、せつなが選んでくれた服に、おとこが言ったんだ。
「挿れていーよね?」
せつながよごされる。
そう思った、そう感じた。全身の毛穴が開き、足の先から頭のてっぺんまで血が、ぼこぼこ、と音を立てて、沸騰し、溢れる。違うだろ、これは現実じゃない、せつなはここにいない、と、感情を抑えるために歯を食いしばった。それでも抑えきれないから身体が震える。
…………きもちわるい。
あなたは、
こっちに、
来ないで。
目を開く、眉間にしわが寄り、殺意でいっぱいになった頭で力一杯にきみを穢れから守るために抱きよせ、
「っざけんなっ!離れろっ!!」
怒鳴り、感情そのままに壁を蹴り飛ばして、おとこから、いやらしい穢れから、
きみをつれて、逃げた。
エレベーターを待っていては追いつかれる。だから、あの日のように階段を駆け下りてエントランスを抜け走る。すこしでも遠くへ行かなければならない。一歩でも遠くへ行かなければ、きみが犯され、穢れ、泣いてしまう。そうなるまえに、きれいな「せかい」へ連れださなければならない。きみは、こんな汚い「せかい」にいてはけない、あの穢らわしい声や感情に身体を触れられてはならない。すこしでも遠くの「せかい」に、きみを連れ出すんだ。こんな「せかい」にいてはいけない。
純白のせかい。
きみの笑顔が『白だと嘘をついた白に近い、白濁した欲望』に汚される前に走れ。
走れ、
走れ、走れ。
走れ、走れ、走れ。
歩くな、脚を止めるな、
一歩でも遠く離れたせかいへ。
走れ、走れよ。
走れ、走れ、走れ、歩くな。
脚を止めるな、歩くな止まるな。
せめて、もう一歩。あと一歩だけ遠くに。なんだよ、もっと脚を出せ………止まるな。遠くに行かなければならないのに脚が動かない……。疲れたんじゃない、脚を痛めたんじゃない。気持ちが、きみを守るという強く揺るがない星のような意思が、ないんだ。ずっとあると思っていた、あたしの正義が………ないんだ。殺意すら覚えるくらいの正義だったのに、きみを守れない。守るどころか、あたしはきみが汚れてしまうところを…………、
なんで、こんな気持ちになる?
なんで、こんなことを考える?
きみが汚れる瞬間を見た………、
想像して、悦んだ。
どうしようもなく、
ほんとうにどうしようもなく、
あたしは汚れていて、
都合のいい自分の快楽に、
きみが泣きわめいてまでも、
欲望に抱かせようとする。
このせかいの誰よりもあたしが穢れている。
白でもなく、黒でもない。グレーでいたいと願ってしまうのは、はっきりと、あたしの「こころ」を見せなくないからだ。
涙が溢れて止まらない。本当に都合のいい涙だ。わかっていたことだろう。あたしは汚れていて、美しくなんかない。こんなせかいですら底に沈んでしまうくらいの泥を、身体の真ん中に溜めこんでいる。こんな身体で、こんな「こころ」で、きみと美しく歩いていこうだなんて考えは、きみがあたしに「こころ」を開いてくれていること利用した、傲慢だ。
こんな、あたしが大嫌いだ。
ひとから「好きです」と思われる価値なんか、ひとつもないのに、よりによってきみが…………。
一歩も動けなくなり、歩道橋の上で泣き崩れ、膝をついて、こどもが駄々をこねるみたいに泣きわめいた。
このせかいはまわっている。
あたしの泣き声なんて気にしない。
だれも気づかずに、ゆっくりとまわっている。
そもそもせかいも、みんなも、それぞれにそれぞれが興味なんてない。
音を立てて狂うのを待っているのは、ひとりひとり、互いに、みんなだ。
みんな、あたしなんかに興味なんて、
ない。
近くの公園までよろよろと歩き、公衆トイレに入って鏡に写った誰かのまぶたは腫れあがって、目が充血していた。およそ、自分だとは思えないほど泣いたのは、あの日ですらなかったのに。
白とは言いがたい濁った冬空の下で、あたたかい缶コーヒーを買って身体をあたためようとしたのだけれど、あたたかかった缶も、すぐに冷えた。こんなにすぐ熱を失ってもいいなら、そんな大切なことを気にしないでいいなら、このせかいでは何だって、お金で買える。そこらに売っている。あたしでも手にはいる値段で売っているんだ。
腕のなかに抱きしめた、きみが選んでくれた服はその類のものではない、はずだ。
それなのに簡単に汚されるところを想像し悦んだ。
ぎゅうっと、ちからいっぱい抱きしめると感じる、熱。
直径2センチメートルどころではなく、きみのあたたかな体温ぜんぶが、ここにあるみたいなんだ。
せつな、
せつな、せつな、せつな。
なんで、こんな気持ちになる?
なんで、あたしがこんな気持ちにならなければいけない?
なんで、あたしは誰かを思うたび、
こんなにも不安になってしまうのか。
ついさっきまで、あの日から何年も「ふつう」を保っていたのに。
あたしは、ふつうでいなければならないんだ。ふつうでいなければ、せかいから嫌われる。自分を見失わないように群れることなく、誰かの真似をしてはいけない。誰かの意見より自分のせかいを大切にしなければならない。決して、誰かのためにだけに前を向いて歩いてはいけない。結局、傷つくのはあたしだから、そうならないように決めたんだ。あの日から、ずっと、やってきたけれども消えない不安や焦燥、届かない思いへの絶望が消えない。
子どものころから「せかい」は、あたしにやさしくはなかった。あたしがやるほとんどの「ふつう」が「せかいのふつう」とは違っていて、いつも笑われるんだ。味方だったはずの幼なじみや、友だちや、近所のお兄さんや、おとなは、あたしをあたしとして見てくれなくなっていった。
あたしのひとつひとつに「せかい」が顔をしかめる。
最後に守ってくれる人間は家族だと思っていたけれど、その家族ですら何年か前に砕けた。いまは何かをすり減らしながら互いにバランスを取り合い、なんとか『家族』としての体裁を保っているだけのカケラの集合体だ。それすら、うつくしく、いとおしい、そう思わなければいけないのに、母は自分の「こころ」や『家族』を砕いた男を庇い続け、弟までもが「せかい」の汚れに気付く前に騙されようと順応しはじめている。このままじゃ、もうすぐ家族みたいなものも、すり減り切れてバラバラになって無くなる。
このせかいで、みんなの「ふつう」は、あたしの「ふつう」なんかじゃなくてね……。
あたしの「ふつう」が、みんなの「ふつう」ではないから、
あたしは…………と、覚悟した。それなのに、あたしのせかいに現れたきみは、
せつなはあたしの、
くるしい、くるしい、せかいで、
「こころ」から「好き」だと言ってくれる、
たったひとりの人間なんだよ。
そんなきみも「衝撃的…」と言って、変わり続ける「ふつう」への憧れを匂わすんだ。きみの愛するゴッホは、どうだ?短い生涯を駆けた彼の絵を見るとつらくなる。きっと、このせかいが彼の「こころ」には『攻撃的』に映っていたからだ。それを見ることが耳を斬り落としてしまうくらいに苦しくて、それでも認めてほしい、見てほしいから最後に手に取ったのは、筆、ではなく、
銃だっただろう。
彼が、こんなにもやさしくないせかいで二千枚も絵を描いた理由は……。
彼が、このせかいで、
求めたものが、
手に入ったのは、
死後なんだよ。
誰もが惜しいひとを亡くした、と言っただろう。それは彼が求めていた言葉やこえ、やさしさだったんじゃないか。ほんのすこし遅かったから、もう二度と届くことはない、愛だ。
ひと言で伝わるはずだった、愛だ。
せつな、きみが彼に惹かれる理由はなに?
あたしの身体にある直径2センチメートルで触れられた熱は、彼が頭に入れた弾丸を避けるためのもの?
「こころ」の糸が締め付けられるから苦しくって、ちからいっぱい抱いている腕のなかの服に顔を埋めて、また泣く。嗚咽と涙がきみに染み込んでいく。
たぶん、あたしも、このせかいといっしょだ。
あたしも、
せかいも、汚れていて、壊れている。
きっと、おかしいのは……
………なんだ。
…………………………
このクソ素晴らしき世界。
Serenade No.13 / Eine kline Nachtmusik. N˚.4
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Ened.
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