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「ーーた」
酒井は無意識で唇の形を読む。
「だ、い、ま?ーーただいま」
「えぇ、ただいま」
女も唇を読み返すと強い風が起きる。花びらが渦状に舞い上がり、女は四方に散るそれらを追い掛けかけ酒井の視界から外れた。足取りは軽やか、その先に待ち人がいるのだろうか。
そして、蝶がさなぎを脱ぎ捨てていくよう外套が残される。酒井は足に力が入らなくなり尻もちをつく。
「あの女、ただいま? ただいまだと? 死んだんじゃなかったのか?」
震える肩を抱き、ぶつぶつ繰り返す。通路中央で腰を抜かす酒井を使用人等が二度見し、傾げた。
酒井が驚いている方向は普段の風景が広がり、春の花々が揺れているだけ。
ーー春の花々が蝶を誘って揺れるだけ。
完
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