公然の秘密

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隣の席の人は、死んだ。 なんでも、実のお兄さんに掴みかかられて揉み合ううちに、二人で家の階段から落っこちたらしい。お兄さんは打ち身程度で済んだらしいが、掴みかかられた側は下敷きになって、打ち所が悪くてそのまま。 事故として処理されたそのショッキングなニュースは、この町の世間話をたっぷり二週間は賑わわせた。聞くところによると、どこかのマスコミの記者がわざわざこんな田舎くんだりまで取材に来たらしい。 お兄さんの素行が井戸端会議のちょっとした話題になるくらいには悪かったこともあり、その一件は憶測に憶測を重ねた下世話な噂に塗れていった。兄がわざと階段から落としたんじゃないかといった兄の責任を疑問視する噂はまだ良い方で、弟がわざと挑発して掴みかからせただの、家の中では弟の方が素行が悪くてそれを何とかしようとした末に、なんて、まるでちゃちなサスペンスドラマのような憶測まででっち上げられた。 けれど、被害者は所詮は地味な一人の男子生徒。ネタになる素材も少なく、すぐに話題は底をついた。そして、その「事故」の記憶は広がったときと同じように急速に人々の間から忘れられていった。 きっと、今やもう話題を振っても「ああ、そんなこともあったっけ」と、誰もが素っ気ない反応を返すだろう。 「次の時間は席替えするから。係は準備しておいて」 授業の終わりを告げるチャイムが鳴るなり、担任は大儀そうにしわがれた声でそう言って、ぼろぼろになった教科書と古びた資料を抱えて出て行った。 良い席を期待する声。逆に悪い席から離れられることを喜ぶ声。友達と席が離れることを惜しむ声。係がくじを作るために、いつも一枚余るプリントを細かく裂いていく音。 代り映えのない日々のちょっとしたイベントに、ざわざわと教室が賑やかになる。 一人がこの世から永久にいなくなったというのに、この四角い部屋の中の世界はつつがなく廻っていく。 その日から、もう何度も席替えがあった。 窓際の列の一番後ろの席。グラウンドが良く見えて、日当たりが良くて、先生の視線が届きにくい、この素晴らしき特等席。 その席を得るためのくじの番号は、このクラスが続く限り永久に欠番となった。 始めは弔いの言葉と共に、彼の机はもっともらしい理由をつけられて残されることが決まった。 けれどいつしか、主を喪ったその机は誰にも見えないみたいに、あるいは見ないふりをしていたのを忘れてしまって、本当に見えなくなってしまったかのように、そこにあるのが当たり前のオブジェとなってしまった。 みんな、いないことが「普通」になって、忘れてしまった。いや、そもそも、彼がいたということをあまり強く認識したこともなかったのかもしれない。彼は、本当に目立たない人だったから。 「あ、同じの書いちゃった、最悪」 「あはは、ほんとだ」 「てか、あたし字下手すぎじゃない?また男子に文句言われるじゃん。書き直そ。紙まだある?」 「あるある」 書き損じた分を補うために、もう一枚別なプリントが裏紙入れの箱から引っ張り出された。定規を宛がわれ、シャッ、という小気味良い音と共に引き裂かれていく。 係の子が番号を書き入れた小さな端切れ達を四つ折りにしていく。クラスメイトの命運を握るくじを作る役目を担う彼女たちも、プリントがいつも一枚多く余るようになった理由を深く考えることはしないのだろう。 気難しげな顔で番号を書き直している彼女は、彼の死が告げられたあの日、今にも泣きそうな目をして俯いていたというのに。紙を折りたたんでいる彼女も、一週間だけ彼の机に活けられていた花に向けて手を合わせていたというのに。 ――白々しい。 決して声には出さないけれど、脳裏に浮かんだあの日の彼女たちの横顔に向けてそう毒づいた。 ひょっとしたら、私は羨ましいのかもしれない。彼の死を忘れることができた彼女たちが。 何度席替えをしても、いつも同じ席になってしまう私は、半年経ったというのにもかかわらず、未だに隣の人の死というものを毎日のように実感させられていた。 まるで、世界の中で自分だけが取り残されているみたいだ。 物語の主人公みたいな、センチメンタルなことを考えながら、真新しい黒のペンケースの角をいじる。 彼はいつもぼーっとしていた。発言は必要最低限。友達は多分いなかった。それを気にしている様子もなかったけれど。むしろ、自分の傍に人がいないことが当たり前であると理解しているみたいに、いつも静かに頬杖をついて外を見ていた。 色白で線が細くて、サイズが合っていない制服のシャツが彼の華奢さを余計に引き立たせていた。気まぐれに跳ねている癖毛を活かすことも矯正することも諦めた黒い髪。その少し長い前髪の下の目つきはすっと細く切れ長で、一度だけ目が合ってしまったときは、一瞬、睨まれているようにも感じた。けれど、その目の表面は優しい戸惑いの色を浮かべていて、そしてその奥の空間は何の感情もなく、ただひたすらにがらんどうなようだった。 気をつけて見ていても、特に目立つような存在ではなかった。気が付いたら既に席についていて、気が付いたらいなくなっているような人。ひとりぼっち。孤独な少年。そういう言葉が適切なのだろうけど、どうしてかそんな言葉は彼には相応しくないように思えた。かといって、孤高などという格好の良い言葉が似合う程、主張するものがあったわけではないが。 強いていうならば、清潔。 誰とも関わらないから、誰にも不快な気持ちを抱かせない。誰も気に留めないほど薄い存在だから、彼自身に絡んでいたずらに傷つけようとする人もない。 だからこそ作られた清潔さ。 クラスメイトからしたら地味で目立たない彼のことを、なんで私はこんなにも知っているのか。隣の席だ。窓の外を見ようと思えば嫌でも彼が目に入るのだから、仕方ないと言えば仕方ない。実際、友達と他愛のない話をしていて、うっかり彼のことを口走ってしまったときに、そういう言い訳をしたこともある。 けれど、その言い訳は、いつからか嘘の成分が多く含まれることになる。 私は窓の外を見るふりをして、朧のような気配を持った彼のことを意識して見るようになっていたのだから。 理由は単純で、他の男子と比べて清く見える彼の性質にただ興味があった。 こんなことを友達に言えば、間違いなく恋だの愛だのと騒がれる。そんなんじゃないと言っても無駄なことはわかり切っている。むしろ、言えば言うほど彼らがヒートアップしていくのは目に見えている。きっと、刺激の少ない田舎に住む若人の悲しい習性なのだろう。 だからこの垣間見は、私の中だけの秘密だった。 朝、机に突っ伏してぎりぎりまで二度寝をしている姿。授業中、お経みたいな先生の話を、頬杖をついて眠たそうに聞いている冴えない横顔。教科書を読まされている時の無機質な声。落とした消しゴムを拾って手渡してくれた時の「ごめんね」という静かな声。 何が「ごめんね」だったのか。予想はつくけれど、今となってはその真意を知る術はない。 今、そちら側を見ても、屋内にいるのがもったいないような青い空が、つまらない額縁のような窓枠に収まっているだけなのだから。 ――窓なんて、なくなっちゃえばいいのに。 まるで子供の夢物語のようなことを考えながら、そちらに向かって細くため息をつく。 機械音声の予鈴が鳴った。しかし、教室の中に雑談を切り上げて席につこうとする者はほとんどいない。何故なら、うちのクラスの担任はあまり褒められるような態度の教師ではないから。 我らが担任様は授業に数分遅れでやってくるのが常。「ああ面倒くさい」とでも言いたげな、不満そうなガマガエルのような顔を上手く取り繕っていれば、教材を用意していて遅れたなどという建前も通じるだろうが、実際のところ担任がその顔を隠したことはない。職員室でゆったりとお茶とお菓子を楽しんでいるから遅れるのだということをみんな知っている。不運なことに、教師の中でもかなりの古株である担任には、それについて注意をする者がいない。そんなことだから、担任の不真面目な遅刻癖はいつまでも治らない。 難しい言葉を使うなら、「公然の秘密」がぴったりだ。 自身の受け持ちの教科ですらその体たらくなのだから、席替えしかやることのないロングホームルームなんて、もっと遅れるとみんな思っている。そして、それはきっと正しい。 私も遅まきながら席を立ち、軽く伸びをして硬い椅子のせいで凝った身体を解す。机の上に出しっぱなしになっていた資料集をロッカーにぞんざいに放り込むと、することもなくまた席に着いた。 昨夜、あの下世話な噂話の根源が、あの人の両親だったということを、風の噂、もとい田舎のご近所ネットワークを駆使して情報を仕入れた親から聞かされた。 死後に発生した彼にまつわる悪い噂など、端から嘘だとわかっていた。だって、彼は見落としてしまいそうなくらい地味な存在だったのだから。そして、それだけではなく、悪の入る隙間がないほどに、泣きたくなるほどに彼の中身が虚無に満たされていたことを、私は知っている。 けれど、素知らぬふりをして、私はその話に耳を傾けた。真実に近い何かを知りたかった。 曰く、あの事故の発端は紛れもなく彼の兄の理不尽な振る舞いであったそうだ。警察の事情聴取もとっくの昔に済んで、現在は家に引き籠っているらしい。 では何故あんな噂が立ったのか。それは、なんとかして兄の名誉を守りたかった彼らの両親が、苦し紛れに放った小さな虚言に始まった。 「あの子の態度が悪かった」 たったそれだけのことに、尾ひれがついてあんな噂になっていったのだ。 その一言が虚言だと判断された理由。それは至極簡単だった。彼の両親は兄だけを異様に目をかけて可愛がっていたそうだ。弟はいつも家の中では、見えない、存在しないものとして扱われていたのだろう。それこそ近所の人が「もう一人いたはずでは」と首を傾げるほどに。 そんな扱いをしていたというのに、彼らの両親は事件のあとから急に彼の話をするようになった。それも目に入らないはずだったもう一人の息子の名誉を貶めるようなことばかり。 その話を聞いてようやく、私は彼のあの空虚さに納得がいった気がした。あの途方もない孤独感と無意識の自己否定。吹いたら消えてしまいそうなほど曖昧に彼の形を作っていたものの正体は、吐き気がするほどにおぞましい悲しみの成れの果てだった。 道理で、彼を送る場が設けられないはずだ。彼の死を悼むべき人達が、そうすることを一度も考えなかったのだから。それどころか、たった一人の「宝物」のために、必死になって彼のことを汚そうとしていたのだから。 なんという不条理だろう。彼を、彼の兄と同様に慈しむべき人たちが、彼の死後にしてようやく、彼の存在を認めるだなんて。 ――神様。 都合の良い時だけ脳裏に現れる存在を、改めて心の中で思い浮かべる。 どうか。どうか。どうか。あの人が次に生まれてくるときは、せめて、もう少し温かい世界に生まれてきますように。 なんて、私はいったい何様なのだろう。 いつか、隣にいた時でさえ、私は彼の心に寄り添おうとしたことはない。親しく話をしたこともない。おはようの一言を交わし合ったことさえ、一度たりともないのだ。 ただ私は、授業中の暇つぶしに外を見るふりをして、地味で儚げな隣人の大人しい様を観察していただけだ。 そんな薄情な人間が、どうして彼の行く末を神に願うのか。そんなもの、エゴの押し付けでしかない。ただ隣に座っていただけの人間に、そんなことを願われたとして、どう考えたって有難迷惑だろう。 それでも。彼のことだ、あっさり赦してくれるのではないだろうか。 それを推し量れるほど親しいわけでもなかったと理解しているくせに。私は己の愚かさに思わず身震いをする。芽生えた羞恥に頬がかっと熱くなった。表情から私の浅ましさが外に漏れ出ているような気がして、そろりそろりと過敏な野良猫のように周りを窺う。 教室内は相変わらず賑々しく、誰もこちらのことなど気にしてはいないようだ。教室の対角の席にいる友達と目が合った。何も知らないような呑気な顔でへらりと笑って手を振られたので、こちらからも振り返す。 誰にも知られていないことにひどく安心して、ゆっくり肩の力を抜いた。私の内心など、言わなければ誰にも知られようがないのに。何故こんなにも動揺したのだろう。 胸の内に貯まりつつある濁った感情を吐き出すようにため息をつく。気晴らしに隣の席を見るけれど、つまらない額縁は何回眺めてもつまらないままだった。 不躾な憶測によって傷つけられた彼の名誉は、彼の両親の罪が「公然の秘密」になることによって、ごくごくひっそりと回復されていくのだろう。それこそ、知ろうとしなければ気が付かないほど静かに。 彼のことを少なからず覚えている人間としては、全くすっきりとしない顛末だ。 それでも、あの人はもうどこにもいない。 汚名が雪がれつつあるというその事実を知っているというのに、私には彼の墓前を知る由もない。そもそも彼が、汚名を汚名としてとらえているかもわからない。 だから、私が彼に報告しに行くことはない。ここで、彼が確かにこの世界にいた証である空っぽの机を眺めるだけだ。 授業開始のチャイムが鳴った。担任が珍しく時間通りにやってきた。教室のざわめき達が、慌ただしく自分の席に戻っていく。少しも変わらず静かなのは隣の空っぽな机だけだ。 担任の指示で、早くも向こう端の席からくじが引かれていく。そのスムーズさたるや、こちらに来るまで数分あるかないかだ。 私は、自分の机の下でこっそりと両の手を握り合わせた。 ――神様、お願いします。どうかまた、この席を私にお与えください。
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