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江戸時代の人々は猫の絵を家の壁に貼った。猫絵という。
これには鼠除けのお守りの意味がある。
当時においてはごく普通の習慣で、富山の薬売りも猫絵を配ったし、米を買った時のおまけとしても付いてきた。
それほど鼠の害に悩まされていたわけだが、実物の猫は高価で中々飼えない。
そこで代わりに鼠除けに効果があるとされた猫絵が普及していったのだ。
猫絵を専門に描く猫絵師という職業も存在し、歴史に名を残す者もいる。
専門でなくとも猫の浮世絵で有名な歌川国芳など当然のように鼠除け猫絵を描いて評判となった。
また群馬の新田郡領主である岩松の殿様は困窮して自ら描いた鼠除け猫絵を売り出して人気を博し、猫絵の殿様として名高い。4代に渡って描き続けた絵は新田猫絵と呼ばれ、現在も親しまれている。
ところでこの猫絵の起源に関し、余り知られていない奇怪な話がある。
時は遡り豊臣時代。
長崎に住む千代女は絵師を父に持つ年頃の娘だ。
彼女は父親の影響で絵を描くのが大好きであった。
いつも父の仕事道具の和紙と筆墨を勝手に拝借し野山に向かう。
そして、花や虫、鳥や獣達の姿を夢中になって写生した。
美女なので嫁に欲しいという男は多かったが、本人は嫁入りなど全く関心の埒外。
父親も娘の才能を認めて好きにさせていた。
その日も千代女は着物の裾を絡げて山を徘徊していた。
何か絵にする良い題材はないかなぁ。
うろうろと奥へ奥へと深く分け入っていく。
考えなしに歩いているうちに道に迷った。
あれっ、ちょっとまずいかも。
このまま日が暮れたら危険だよ・・・。
相当山奥へ入り込んでから、ようやく千代女は焦り始めた。
突然、山が鳴動した。
轟き渡る地響きは凄まじく、千代女は腰を抜かして尻餅をついた。
地震だろうか。
天を仰ぎ、木々の震える梢を見詰める。
茂みの中の鳥は一斉に飛び立ち、灰色の雲は渦巻いている。
地面からもうと土埃が舞い上がり、辺りは霧に包まれたかのようになった。
千代女は咽ぶ。
やがて異変は終息し、しんと静まり返った。
同時に千代女の眼前に何か大きな影が立ち現れた。
それは牛程の巨躯を持つ獣であった。
虎? と千代女は一瞬思った。
確かにその姿形は虎と呼ぶに相応しい。
しかし、毛の模様が違う。
見知った虎の絵に描かれた縞模様とは全く異なる。
三毛だ。三毛猫そっくり。
なので虎というよりか巨大な三毛猫のように見える。
それはそれで怖い。
千代女は息を呑み、地面に尻をつけたまま後退った。
獣は燃える炭火の如き眼で千代女を射るように見る。
その静寂は、まるで時が固まったかのようだ。
「・・・くってやろうか」
獣がぽつりと呟いた。
「ひゃあああああ!!!」
千代女は叫び、座り小便を漏らした。
獣が人の言葉を口にしたのも衝撃的であったし、更にその台詞の内容は臓腑がひっくり返りそうな恐怖をもたらした。
「やだ・・・やだ・・・」
動けない千代女に獣は近付き、頭を下げて地面に溜まる尿の匂いをくんくんと嗅ぐ。
「ここは妾の縄張りじゃ。勝手に印をつけるでない」
そう言って鼻に皺を寄せ、恐ろしい唸り声を上げる獣。
お漏らしをマーキングと解釈したようだ。
「す、すみませぇん」
震え上がって謝りながら、千代女は更にちょろりと尿を追加した。
括約筋は緩みっぱなしだったが、千代女の頭は回り始める。
会話が出来るのなら助かる道もあるのではないか。
「あなた様はいったい・・・?」
千代女は聞いてみた。
「この山の神のアマネコじゃ」
「ヤマネコ?」
「違う。天の猫、アマネコである」
山の神といえば蛇だったり猪だったり狼だったり熊だったりするが雌猫もいるのか。そういえば山の神は多産の女神だと聞いた事があるなぁ。
千代女が考えを巡らしているとアマネコが言った。
「では最初に申した通り・・・」
「ええっ! く、食わないで! 助けて」
必死の命乞い。もう尿も放出しきっていて失禁する事すら出来ない。
「食わないで? だから助けてやると言うに」
「・・・・・・?」
「送ってやろうかと言ったであろうが。道に迷ったのではないのか?」
呆れたようにアマネコは言う。
「・・・・・・・・・はい。迷いました」
千代女は呆けたようにふらふらと立ち上がった。
尻が冷たい。
安心すると千代女の創作意欲がむくむくと頭をもたげてきた。
山の神。こんな素晴らしい題材に巡り会って描かぬ手はない。
「お願いがあります!」
「何じゃ」
「アマネコ様の絵を描かせて下さい!」
アマネコはきょとんとする。
「唐突な娘じゃな。妾の絵とな」
「はいっ。描きたい。絶対描きたい」
「まぁ・・・別に良いが」
承諾を得ると千代女は満面の笑みを浮かべ、巾着より道具を取り出して喜々とアマネコの姿を和紙に写し取り始めた。
大人しくポーズを取り、絵筆を動かす千代女を見つめるアマネコ。
「出来たぁ!」
千代女の会心の笑顔。
「どれ、見せてみよ」
アマネコは絵を覗き込む。
「ほう、上手いの」
千代女の絵は実にリアルに生き生きとアマネコの姿を描き出していた。
但し、大きさを比較する物は描き込まれていないので普通の愛らしい三毛猫の絵にしか見えない。
それはともかくアマネコはすこぶる上機嫌になった。
「気に入ったぞ。褒美をやろう」
「えっ! そんな、ご褒美なんて・・・何?」
千代女は目を輝かせる。
「近々この国に起こる事を教える」
「ふみ??」
「心して聞くがよい。間もなく恐るべき疫病が流行る。老若男女を問わず多くの者が死に果てるであろう」
「ふええええーーーーーーーーっ?! そんなこと、急に、急に、急に!」
千代女は危うくまた腰を抜かすところであった。
心浮くご褒美への期待など霧散した。
「その病は鼠がもたらすものじゃ。日の本は確実に地獄絵図と化す」
千代女の反応には委細構わず、アマネコは話を続ける。
「あううう・・・そ、そんな、そんなぁ」
神様が言うのだから間違いないのであろう。千代女の体は自然と震え始めた。
「やだっ、やだ、やだ、やだ・・・・・・」
千代女はその場に蹲り、ぼうとアマネコの顔を見上げ泣きべそを掻く。
「そこで褒美じゃ」
「えっ・・・?」
「辛うじて病の伝播を免れる地もある。教えるから家族を連れて移り住むがよい」
「・・・・・・・・・・・・・・・・・・」
「どうした?」
「それだけじゃやだ!」
「なっ、何っ?」
「皆を助けて!」
「何を言い出す」
「あたしの絵にはそれくらいの価値があるんだもん! 神様なら出来るでしょ? 皆を助けて! 助けて! 助けて!」
すくと立った千代女の怒涛の哀願乱れ撃ち。
「無茶苦茶言い始めたの、お主は・・・・・・」
「お願い、神様、アマネコ様! お願い! お願い致します」
「そもそも妾は」
「お願いします! お願いします! お願いします!」
アマネコは苦笑した。
千代女は猫が苦笑する顔を初めて見た。
というか、多分誰も見たことはない。
「ああ、もう。分かった、分かった」
アマネコは降参したとばかりに投げやりに言う。
「ホントっ? お薬教えてくれるんですかっ?」
「いや、その妾の絵の写しを人々に見せて広めるのじゃ。妾の姿を見た者には鼠の病の難が及ばぬよう力を奮おう」
「うわあ! あっ、あっ、ありがとうございますううう!!」
無事家に戻った千代女は遮二無二アマネコの絵の量産を始めた。
そして、それを方々で配る。
「鼠の病から命を守るありがたいお守りだよう」
その魅力ある筆致で描かれたキュートな三毛猫の絵が評判になった。
しかも何やら鼠が招く害を防ぐ縁起物らしい。
評判が評判を呼ぶ。
人気沸騰、大ブレイク。商機ありと模写する絵師も続出。
アマネコの絵はたちまち全国に広がっていった。
間もなくやってきた江戸時代を通じ、アマネコの絵は一般化していく。
その過程で当初の謂われは忘れられ、絵も三毛猫とは限らなくなりポーズも多様化した。ただ鼠除けの猫絵として愛され続けた。
それでも元を辿ればアマネコの絵には違いないのだ。
戦国末期、ヨーロッパの宣教師や商人を乗せた船が続々と日本を訪れた。
彼らの故郷はスペインやポルトガル。
そのイベリア半島ではペストの凄惨なパンデミックが起きていた。
16世紀末にスペインでは50万人が死亡している。
そして、ペストの宿主となった鼠達は貿易船の中にも紛れ込んでいた。
徳川の時代が終わり、猫絵の習慣もだんだんと廃れていったのは寂しいことである。
日本でのペストの発生は明治32年までない。
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