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人魚
静かな夜だった。
小波に耳を傾けながら、海上を照らす月を眺める。潮の香りが鼻をかすめた。
――また、やってしまった。
膝を抱き、顔を埋める。祖父のいる南の離島へ来て十年経った。それでも同世代の人間からは余所者扱いを受ける。
どうやら祖父に似て短気な性格らしく、すぐに手が出てしまう。殴られた方は鼻血を流していた。それだけで俺は悪者扱い。殴った拳にも痛みがある。そのことを誰もわかってくれない。
ここは閉鎖的な社会だ。四方を海で囲まれたこの島には、週に二度定期船が来るだけ。おかげで観光客も少なく、ましてや移住者なんて滅多にいない。島の住人はずっと同じ顔ぶれた。逃げだそうにも逃げられない。ここは牢獄のようだと思う。
早く大人になりたい。
潮風が短い髪をなでる。少なくとも自分で稼げるようになれば、この島から出て行くことができる。ただ、七つのとき不慮の事故で両親を亡くして以来、男で一つでここまで育ててくれた祖父を置いていくことだけが心残りだった。
そんな祖父も、近年は体調を崩しがちである。いつまでも不安は尽きない。
大きく息を吐いたときだった。水しぶきがあがる音がした。視線をあげる。夜の海は暗い。海面に何かが浮かんでいたとしても、見つけられるはずがない。それでも目を凝らしてしまうのは、少しでも気分を紛らわせたい気持ちがあるから。自覚はある。
波打つ音を余所に、月明かりのさす海面をじっと見ていたときだ。
月光に照らされ、何かが高く飛び跳ねたのが見えた。
それは近くにある岩場へと向かっているようだ。岩場には、波が削って作った天然の小さな洞窟がある。その奥には、小さな祠が奉られていた。海の神様を奉っているんだと昔、じいちゃんは言っていた。
海の神様。この島の人間にとって、海は敬うものであると同時に生活を支える柱でもある。島の至る所に祠や社があるのは、今でも自然と共に生きている証拠なのかもしれない。
動きたくないと駄々をこねる体に渇を入れ、コンクリートでできた防波堤を降り、スマホのライトを頼りに岩場へ向かう。浜辺を沿って歩けば行ける場所だ。足場もそこまで悪いわけじゃない。
あそこまで高く跳ねるのだ。群からはぐれたイルカだろうか。もしそうなら、海続きとはいえ、狭い洞窟の中に入ってしまうと出られなくなる。かといって、自分にできることもない。明日の朝、様子を見に来ることもできたが、今は家に帰りたくなかった。
浜辺から岩肌へと足場が変わる。波が岩に当たって砕けては、肌に当たった。まだ、夏場の海だからいい。これが冬だったら、寒くていてもたってもいられないだろう。
歩いているうちに、打ち寄せる波を拒まずに吸い込む場所に出た。目的の洞窟は近い。岩場に沿って歩けば、自然と洞窟に入る。縦七メートル、横十メートル、奥行きは二十メートルほどの小さな洞窟は、壁面に沿って人一人が歩ける場があるだけで、あとは海である。その最深部にだけ踊り場のような広さがあり、壁岩に食い込むように祠が掘られている。
どこかへ行ってしまっただろうか。
月明かりの届かない洞窟の中は、黒一色。足を踏み入れるのも躊躇してしまう。スマホの明かりを奥へ向けてみたが、イルカらしきものの姿は見えない。やっぱり勘違いかと思ったときだ。
波音とは違う、水を切る音が聞こえた。慌ててライトを向けると人の頭が見えた。
まずい。
溺れている。そう思い、とっさに持っていた荷物とスマホを足下に置くと、海へ飛び込む。そして後悔した。今は夜の海。太陽の出ているときと違い、海中は黒一色。何も見えない。海面を泳ごうと思っても、岩肌が近くにある。ぶつかればただでは済まないだろう。明かりがなければどうにもならない。短絡的な自分の思考に苛立ちを覚える。直したいと思って簡単に直るものでもない。
とにかく一度戻ろうと思った。だが、どこにいけばいいのかわからず、軽くパニックになる。
くそ、早くしないと。
片手を伸ばし、周囲を探る。しかし、どれだけ伸ばしても何も触らない。濡れた服が徐々に重く感じ始めた。できるだけ明るい方へ向かったときだ。何かが手首を掴んだ。海草やクラゲを触った感覚ではない。人の手の感覚だ。力強く引っ張られ、耳元で海水が激しく音を立てる。気がつけば、祠の前にいた。せき込めば、口の中に塩辛い味が広がる。腕で顔を拭い、状況を確認しようとしたら、青い瞳がこちらを見据えていた。
暗闇の中でもよくわかるアイスブルーの瞳に、白銀色の髪。はっきりとした顔立ちの男なのか女なのかわからない人間が、海面から顔を出していた。
「――よかった」
助けようとして、逆に助けられた。容姿からして観光客だろうか。服を絞りながら、「夜の海は危ないので」入らないでください――と言おうとした瞬間、再び腕を引っ張られた。
あっと思ったときには、水面に勢いよく叩きつけられた。突然のことで息もろくに吸えてない。酸素を求め、海面に手を伸ばせば何かに引きずられた。洗濯機の中に放り込まれた気分だ。このまま死ぬのかと思った瞬間、海面の上に出た。
肺いっぱいに酸素を取り込む。かき込むように何度も息を吸い込めば、聞き慣れない音を拾った。鈴の音にも似た、軽やかな音色。周囲を見回せば、月が真上に出ている。洞窟から少し離れた場所のようだ。そんな月明かりが、音の正体を照らしていた。
すぐそばでさっきの人が、大きな口を開け笑っていたのだ。月光の下で見れば、その髪は光輝く銀のようだった。
「いきなり何するんだよ!」
胸当てがないところを見るに男なのだろう。陸の上なら掴みかかっていた自信がある。どんなに懐の深い人間でもさすがに怒るだろう。
ここから泳いで戻るのか。憂鬱な気持ちで浜辺を見つめていると、再びあの不思議な音が聞こえた。音の鳴る物でも持っているのだろうか。
とりあえず今は、浜辺に向かわないと。このまま波に身を任せていたら、沖まで流れてしまう。先に行くぞと男を一瞥したら、再び海の中へ引きずり込まれた。
悪ふざけじゃ済まされない。掴まれた手を力いっぱいふりほどこうとしたときだ。
『僕の声、聞こえる?』
水音に混じってはっきり聞こえた人の声。同世代か少し上の男の声だ。驚きのあまり、身を固まらせると今度は笑い声が聞こえた。息が続かず顔を出せば、彼も顔を出す。
「――お前何者?」
そう言えば、にこっと笑って水中に姿を消した。その次の瞬間。水面から高く飛び跳ねたのは、半人半魚。夢でも見ているのかと思ったが、次第に冷えてきた体とそれを揺らす波が、現実だと訴えてきた。
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