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   ◇  それからというもの、人目を盗んでは岩場の祠へ足を運ぶようになっていた。 「カイ、例の物持ってきたぞ」  そう声をかければ、水しぶきと共に白銀色の髪の人魚が現れる。  人魚の名前は人の言葉では言い表せないため、カイと呼ぶことにした。海からとって、カイ。愚直だと言われそうだが、仕方がない。名付けなんてしたことがないのだから。向こうもこの呼び名を気に入っているようなので、とりあえずこのまま呼んでいる。  不思議なことに、人魚は人の言葉を理解できるものの、人が人魚の言葉を聞き取るには、水の中でなければならない。互いに身振り手振りで意思を伝えることもできたが、なにぶん時間がかかる。今が夏でよかった。まだ海に飛び込むことができる季節だ。  カイは美しい人魚だった。人間の食べ物に興味津々で「あれが食べたい」「これが食べたい」と言う。今日は鯛焼きを持ってきた。あんことカスタード味。 それを見たカイは、祠の前に身を乗り出す。昔、水族館で見たプールサイドに身を乗り上げたイルカのようだ。ただ、イルカと違い、カイの尾鰭には鱗がぎっしりと生えている。髪と同じ白銀色だ。  鯛焼きを不思議そうに眺めていた彼は、一口食べて目を大きく見開くと、尾鰭を海面に叩きつけた。どうやら気に入ったらしい。指先までなめると、そのまま俺の手首を掴む。  人魚と人間じゃ体温が違う。人の手は、人魚にとってそれなりに熱いのだとこの前教えてくれた。それでも彼は、何か言いたいことがあると俺の腕を掴み、海へ引きずり込もうとする。  さすがにそれは勘弁してほしい。そう何度も伝えたのだが、興奮すると忘れるようで、体温によるやけどを負うことより、一刻も早くこの感情を伝えたい気持ちの方が勝るらしい。 「わかったから、ちょっと待てって」  急いで着ていた服を脱ぎ、事前に履いていた水着姿になると海へ飛び込んだ。後を追うようにカイも飛び込む。 『何あれ、初めて食べる味だ!』  興奮冷めきらない声と共に、海中でもわかるほどのアイスブルーの瞳が迫る。 『君たちはこの味をなんて呼んでいるんだい?』  海面に顔を出し、息を吸い込む。さすがに水中でしゃべることはできない。幼い子供のように目を輝かせるカイを見て、思わず口角があがる。 「甘いっていうんだ」  そう伝えれば、カイは音を真似する。  時にはカイに連れられ、誰もいない海辺で魚や貝をとって遊んだ。互いに顔を見合わせ笑いあい、気兼ねなく言葉を交わしあうのにそう時間はかからなかった。
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