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不穏
◇
「おい、坊主」
いつものように浜辺へ向かう階段を降りようとしたときだ。
明らかに島民ではない男に声をかけられた。無精ひげのせいか、どことなく近寄りがたい雰囲気をまとった四十代くらいの男だ。観光客にしては、異質な風貌である。
「何?」
足を止め、ぶっきらぼうに応えたときだ。
「お前、人魚を見たことはあるか」
数秒、息をするのを忘れた。「ない」と平静を装って答える。心音でバレてしまうのではないかと思ったが、男は「そうか」とだけ言うと背を向けて行ってしまった。
何なんだ、あのおっさん。
見定めるように鋭い視線を向ける。そのまま洞窟には向かわず、少し時間を置いてから行くことにした。
変わった男の話は、瞬く間に島中に広がった。それもそうだろう。わざわざこんな離島まで来て人魚を捜しているのだ。それも冗談ではなく本気で。皆、口をそろえて「見たことない」という。人魚伝説があるならまだしも、そういった言い伝えや記録はこの島にはない。
変な人間がいるもんだね、と近所のばあちゃんは言っていた。
俺はその話をカイにもした。男が狙っているのは人魚だ。もう会うことはやめた方がいい――そう言ったら海の中へ引きずり込まれた。
あの馬鹿。
迫る海面を見ながらそう思った。
人間は、水中で呼吸ができないと何度も言っているのに。下手したら溺れ死ぬことだってある。もう一度教えてやらないと、と思った瞬間、何かが頬を触った。目を開けると、光り輝く星空のような双眸が目の前にあった。カイはどこか怒っているようだった。
『そんな人間のせいで、僕らが会えなくなるのはおかしいだろ』
仕方がないだろう。万が一、カイの身に何か起きて見ろ。それこそ、メディアによって、根も葉もないことを世の中に発信される。それだけじゃない。実験動物として扱われる可能性だってある。
でも、カイは納得しなかった。
『僕は人間とは違う。自分の身くらい守れる』
だから、今までと変わらずに来いと言う。そうしないと許さないとも。
海の宝石のようなアイスブルーの瞳に映る自分の姿が、ひどく醜く見えた。俺は人間だ。あのおっさんと同じ人間なのだ。きっと、こうして会うことがなければ、カイが捕らえられ、テレビやネットで話題になっても驚くだけで同情なんかしなかっただろう。
どんなにカイが望んでも、ここに来なければいい。何せ俺は陸の上に住んでいる。半身が魚である人魚が、自力で来れる場所ではない。
カイのためを思うのなら――。
でも、洞窟に行くのを止められなかった。学校にも、家にも、島にも。俺の居場所はない。この場所で、カイとたわいもない話をしている時間がいつの間にかかけがえのないものになってしまった。
ずるい人間だと自覚している。
でも、今更一人になるのは耐えきれなかった。
それからは、人一倍周囲の目を気にして洞窟へ向かった。ときに日が沈んだあと、または日の出の時間に会うこともあった。
「カイはさ、仲間のところに戻ろうと思わねえの?」
打ち寄せる波に視線を落としながら問う。もしかして、宝石のように美しいこの生き物は、ひとりぼっちの自分を哀れに思い、この場にとどまってくれているのではないか。
思い込みもここまで来ると笑い話だ。でも、笑い飛ばせない自分がいるのも事実である。答えを聞くには、水中へもぐらなければならない。でも、聞くのが怖くて岩場から動かないでいると、カイは洞窟を出て高く飛び跳ねた。彼なりの返答だ。でも、戻ろうと思っているのかそうでないのか、はっきりとしたことはわからない。
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