1/1
前へ
/4ページ
次へ

 彼と出会い、もうすぐ冬が来ようとしていた。気軽に海に飛び込むこともできなくなり、カイは前よりも不機嫌でいることが多くなった。  子供用のビニールプールでも用意するべきかと思いながら、洞窟へ向かっていると、激しく鳴る鈴のような音が聞こえた。嫌な予感がする。考える間もなく、洞窟へと走った。  勢いのまま中に足を踏み入れると、三人の男が祠の前で何かを取り押さえていた。地面に散らばる、白銀の髪と尾鰭。青い瞳がこちらを映した。 「何やってんだよ!」  勢いのまま突っ走る。陸のように走れなくても関係ない。勢いのまま拳を振れば、宙を切った。途端、無防備の腹に衝撃が走る。うめき声を上げ、地面に転がれば、鈴の音がより一層激しく聞こえた。  必死に抵抗するカイの口が何かを叫ぶ。  言葉はわからない。でも、人の体温は人魚にとって高温だ。そんな手で腕や背中を押さえつけられれば、悲鳴をあげたくなるだろう。 「早く檻を持ってこい。でかいやつな」  携帯越しに男が言う。霞む視界がとらえたのは、例の無精ひげを生やした男だった。カイの髪を掴み持ち上げると「なかなか上物だな」と言う。  俺は手を伸ばし、その足を掴んだ。ゴミを見るような視線が向けられた。 「――離せ」  そう言葉を吐いた瞬間、再び腹を蹴られた。空気が口から飛び出す。それでも男の足を離さなかった。 「そいつを――離せ!」 「面倒なガキだな」  そう言って忌々しく唾を吐きかけると、何度も空いた片足を振り下ろしてきた。  絶対に離すもんか。  両手で男の片足にしがみつく。リンリンリンと警告するように鳴る鈴の音。それを頼りにかろうじて意識を保つ。ついに手に力が入らなくなって、芋虫のように転がった。ぼやける視界に祠が映る。  ――ああ、神様。  重くなる瞼を必死に持ち上げ思う。  もし、いるのなら。どうか、彼を――。  助けてあげてください。  意識を失う直前だった。 「何だ、あれは」  男の怯える声が耳を打った。力を振り絞り、瞼を持ち上げた目に映ったのは、洞窟の入り口を飲み込むほどの高波。このままでは、海に流される。そう思ったのか、男たちは急いで洞窟を出ようと走る。しかし、足場になれていないのか、もたついているうちに波は洞窟の中へ押し寄せてきた。  流される――そう思うことはできても、泳ぐ力は残っていない。このまま溺れ死ぬかもしれないのに、不思議と心は穏やかだった。  神様はいたんだ――祠へ目を向けた瞬間、波に飲まれた。  カイも今回のことで身に染みてわかったはずだ。人間は、彼にとって敵。これに懲りて、もう二度と陸に近づくことはないだろう。それはつまり、別れを意味する。  唯一の居場所を失うのなら、このまま海とひとつになるのもいい。  そう思ったときだ。  誰かが何度も名前を呼んでいる。そうかと思えば、腕を引っ張られた。暗かった視界がどんどん明るくなり、いつの間にか海面から顔を出していた。思いっきり酸素を肺に取り込む。視界の隅に星のように光り輝くものがあった。  カイだ。  彼は俺が沈まないよう体を支えていた。先ほどの男たちに殴られたのか、頬が腫れている。目が合うと、彼は笑った。嘲笑や侮蔑ではない。安心させようとするほほえみだった。 「……何でだよ」  きょとんとカイは首を傾げる。それを見て余計に腹が立った。 「俺が! ――俺がいつか。あいつらみたいに、お前にひどいことをするって……考えないのかよ」  風船がしぼむように、言葉尻が弱くなる。我ながら波に乗まれそうな情けない声だと思う。もしかしたら、カイの耳には聞こえないかもしれない。でも、それでもいいから言わなければと思った。  俺は人間だ。カイのように尾鰭も美しい瞳も髪もない。水中に潜り続けることもできない。卑怯で自分勝手な生き物なのだ。  隣にいることも許されない。そんな気分になって、視線をそらしたときだ。 『馬鹿だなあ、君。ずっとそんなこと考えていたわけ?』  カイは水掻きのついた手で俺の頬をつねった。 『種族とかどうでもいいでしょ。一緒にいて楽しいだけじゃダメなの?』 「カイ、お前。言葉――」  水の中じゃなければ聞こえないはず。だが、彼はあっけからんとした態度で言う。 『いろいろ試してたの。水中じゃなきゃ僕の言葉がわからないのに、君は水の中で息ができないだろう? 最近じゃ君は水の中に入りたがろうとしないし。今日来たら驚かせてやろうと思ったのに、あんな奴らが来るし。波を呼んでたら君は来ちゃうし』  むくれた顔をして彼は言う。 「波を呼ぶ?」  カイはうなずく。 『自分の身くらい守れるって言っただろう?』  不満だと言わんばかりの感情をアイスブルーの瞳に宿し、こちらを見据える彼を見て思わず笑ってしまった。 「お前、すごいな!」  美しい人魚は、満足気に口角をあげた。  それから三年、十年、五十年と経った今でも、俺はこの島にいる。  きっと最後を迎えるその日まで、海に行くだろう。  海には、強く美しく、好奇心が強い友がいるから。 了
/4ページ

最初のコメントを投稿しよう!

0人が本棚に入れています
本棚に追加