引きこもりのカード

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 メシをいきおいよく平らげてしまうと、ほんの少し食事を持ってきたあのケースワーカーへの留飲も下がったような気持ちになった。  それから、俺と脇坂という女のドアを挟んだ奇妙な関係が始まった。  脇坂は片時も目を離さずにドアを見つめているんじゃないかというほどに、俺が『メシ』のカードを差し込むとすかさず食事を運んできた。 「ご機嫌はいかがですか?」 「今日のお食事はいかがでしたか?」 「何かリクエストしたいメニューはありますか?」  などなど、脇坂は相変わらず不気味なほど透き通る声でドア越しに語りかけてくる。  所詮ケースワーカーの仕事だろうと、俺はまるっと無視を決め込んだ。  あの女の言葉に返事をしてしまっては、まんまとあいつの術中にはまったようなもにだと思ったからだ。  一度使った『メシ』のカードは、夕飯を運んでくるお盆のうえに戻されてきた。  つまり、朝昼晩と三食分のカードさえあれば、夜には三枚のカードが戻ってくる――食事には困らないというわけだ。そういうところは、案外と考えられている。  言うまでもなく、俺は一度も『ありがとう』のカードなど使うことなどなかった。  それどころか、『ありがとう』のカード自体、パソコンゲームに負けた腹いせにゴミ箱の奥に突っ込んだままである。  ただ、床を何度も乱暴に踏み鳴らす生活からカードをドアの隙間に差し込む生活に変わってから、俺のなかでも少しだけ変化が訪れていた。  それは本当にかすかな変化ではあるが、気持ちが穏やかなのだ。  考えてみれば、ある意味で当然である。  今までは頭に血を昇らせてガンガンと床を何度も踏み鳴らして催促していた食事が、すっとカードを差し込むだけで待つこともなく出てくる。  ケースワーカーのやり口にはまる気はないが、俺にとってもこの生活は快適な形ではあるのだ。  脇坂とかいう女の手法を認める気は欠片もないが、この方法は今までのやり方よりもずっと心身ともに楽になったのも事実だった。 「クソッ、クソッ……ああ、イラつくぜ」  口ではそういってみても、俺はこのシステムが気に入り始めていた。  そして心なしか、出される食事もいいものになってきているのだ。  よくよく考えてみればクソババアも楽になっただろう。  今まではいつ鳴るかわからない床の音に怯えながら慌てて料理を準備していたが、今は平穏にじっくりと飯の支度が出来ているのだろう。 「『メシ』か……悪くねぇかもな」  椅子に思い切り上体を預け、天井にかざすようにカードを見つめる。  白地に黒いまるっこいフォントで描かれた、シンプルなカード。  ああ、こんな方法があったんだな。最初っからこういう風にしていれば、俺とおふくろや親父の関係だってもうちょっと……。  大きく息を吐いて、らしくない考えを頭の奥に押しやった。  それでも『メシ』と書かれたカードを捨てる気には、どうしてもなれなかった。  ある日の夕食のことである。  いつものように『メシ』のカードを差し込むと、いつも通りに料理が運ばれてきた。  普段なら「お料理出来ましたよ」とだけ言って去っていく脇坂が、今日は様子が違った。  脇坂はわざわざドアをノックして言ったのだ。 「こんばんは、板山さん。うふふ、今日はですねぇ、いつもより特別なお料理をご用意しましたから……じっくりゆっくり、味わって食べてくださいね」  耳元にねっとりとねばりつくような声で言って、脇坂は去っていった。  俺は脇坂の微かな足音が階下に離れていくのを確認して、ドアを開ける。  そしていつも通りお盆に乗った料理を部屋に素早くしまい込み、ドアを閉めた。 「特別な料理だと……?」  パソコンのモニターの明かりしかない部屋で目を凝らす。  お盆のうえにのせられた料理は見たところ、ハンバーグか何かだろうか。  これのどこが特別なんだ――?  顔をしかめて、部屋の電気をつける。  明かりをつけて確認すると、そこには白い皿にハンバーグが、その横にはポテトとにんじんのグラッセが添えてあった。端っこにはブロッコリーもある。  妙に赤赤しいデミグラスソースがかかったハンバーグ定食のようなお盆のうえを見て、俺は目を見開いた。 「これの何が特別……あっ」  なんですぐに気付かなかったのだろう。  これは、俺がガキのころ大好きだった食事の組み合わせだ。  学習塾のテストで良い点を取ったとき、俺が学校の先生に三者面談で褒められたとき、俺がちょっと疲れた顔をしていたとき……。  あのクソババア、いやおふくろはいっつもこれをつくってくれていた。  ケチャップが大好きな俺のために、わざわざデミグラスソースも手作りで、ハンバーグをソースによく絡めて食うと、本当にうまかったっけ。  それはあのときのメシそのままだ。これは、あのときの料理なのだ。 「あ、ああ……おふくろ……」  ポタリと、お盆に何かが落ちた。  それが自分の流した涙であることに気が付いたのは、ハンバーグを何度もかみしめたあとであった。  俺は、泣いているのか――。  受験に失敗して、医大に入ることが出来なかった俺。  どうしても医大へのこだわりが捨てきれなかったとき、応援してくれた家族。  それなのに、俺は何もかも世の中のせいにしてバットを振りかざして暴れ回った。  荒れに荒れて、両親にも無意味に当たり散らし、怒鳴り散らした。  そんな俺に愛想をつかし、いつしか親父が俺に背を向けて去っていった。  それでも、どうしようもないダメ人間になり下がった俺をたったひとりで支え続けてくれたおふくろ。  それなのに、俺は、俺は何をしているんだ……。  こんな俺を、おふくろはまだ見捨てないでいてくれるのか。  このハンバーグが、すべての答えを物語っていた。  あのときよりちょっとだけ味わいが違う気もするが、それは時間が経ち過ぎたせいか、単純に使っている肉の割合が違うのか。いいや、俺の味覚だって、もう十年以上前の記憶なのだ、正確なわけがない。  なんにしても、おふくろは俺を想ってこのハンバーグを作ってくれたんだ。 「俺は! 俺は……!」  いますぐ部屋を飛び出して、おふくろにお礼を言いたかった。  俺が間違っていたと、もう一度すべてをやり直させて欲しいと、今までの俺を許してくれと。伝えきれない感謝と謝罪の想いを、おふくろに届けたかった。 「おふくろ……ううっ、立て、立つんだ俺。今すぐこの気持ちをおふくろに伝えなきゃ、俺を見捨てないでいてくれた、たったひとりの人、おふくろに……うううっ」  だけど、ああ、俺はなんて意気地がないのだろう。  十年間もひきこもり、その間ろくにおふくろの顔さえ見ていない。  その長すぎる歳月が、どうしても恐ろしかった。  引きこもり続けたこの部屋から出るのが、どうしようもなく怖かった。  もしもおふくろが部屋を出た俺の姿を見て恐れたら――あれだけ床を何度も踏み鳴らし、怒鳴り散らしバットを振り回したんだ。恐れたってなんにもおかしくない。おふくろは悪くない。  それでも怖かった。  おふくろに怯えた目で見られることを考えると、それだけで全身が震えてくる。  だけど、この気持ちをどうしても届けたい。
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