引きこもりのカード

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 どうすればいい、どうすれば……。 「あっ! あのカード!」  脇坂が一枚だけ置いていった、『ありがとう』が書かれたカード。  今こそ、あのカードを使う時なのではないか?  俺は急いでゴミ箱をひっくり返し、しわくちゃになったカードを丁寧に伸ばした。  そして、幸せな食事を終えたお盆の真ん中に、そのカードを置いて部屋の外に出した。  祈るような気持ちで待っていると、ほどなくして静かな足音が近づいてくる。  おそらく、脇坂のものだろう。 (あのカードが、おふくろの元に届きますように。おふくろの気持ちに届きますように)  俺はガラにもなく神様にすがるような思いでドアに背中を預け、膝を抱えていた。  心を開くのが、どうしようもないほどに遅すぎた。  その思いは全身でヒシヒシと感じている。  けれどそれでも……新しい一歩を、踏み出せたような思いが心のなかを満たしていた。  それから、朝も昼も晩も、俺の食事にはハンバーグが届いた。  きっとおふくろは、あの『ありがとう』のカードを見て喜んでくれたに違いない。  添えてあるおかずは毎回違ったが、赤いデミグラスソースのかかった大好物のハンバーグがいつもお盆の中心に白いお皿で置かれていた。  白い皿に茶色いハンバーグと赤いデミグラスソースが映えて、俺はいまだに現役のガラケーを引っ張り出してガラにもなく何枚も写真をとったりもした。  おふくろの作ってくれるハンバーグは、何度食べてもまったく飽きなかった。  それどころか、いつまでも食べていたい。そんな気持ちになる暖かなハンバーグだ。 「俺はなんて幸せ者なんだ」  こうして思うと、なんだかんだいってもあのカードを渡してくれた脇坂にも感謝の気持ちが芽生えてきた。  さすがは引きこもり相手のケースワーカーというところであろうか。  あの少々不気味な佇まいや振る舞いにも、きっと何か理由があるに違いない。  ただひとつ、俺のなかには大きな問題があった。  最初にハンバーグが運ばれてきたときに出した『ありがとう』のカードが一向に戻ってこないのである。  もうひとつの『メシ』のカードは夕飯とともに戻されてくるが、いつまで待ってもありがとうのカードは戻ってこなかった。  今日も、もうすぐ夕飯の時間がやってくる。  いっそ、手書きでありがとうのメッセージカードを作ろうかと思ったが、十年にわたる引きこもり生活で、俺の心はすっかり臆病になってしまっていた。  この感謝の気持ちを手書きで上手に書けるのか。  こんな部屋の中に残ったレポート用紙に適当に書いた言葉で思いは伝わるのか。  不安で不安で、俺は毎日『ありがとう』のカードが戻ってくることを心待ちにしていた。  そこで、ふと気付いた。  これはケースワーカーである脇坂の試練なのではないかと。  『ありがとう』のカードをお盆に添えるのは、最初の一歩なのだ。  そして、そこから一歩踏み出して、部屋から出ておふくろにありがとうと直接伝えることこそが、あの女の狙いなのではないだろうか。  そういう考えに至っても、とくに脇坂には腹は立たなかった。  ただただ、それが出来ない臆病な自分に苛立ちが募るだけである。 「俺はいつからこんな臆病者になってしまったんだろう」  脇坂のやり方は、おそらく間違っていない。  顔と顔を合わせて、心からありがとうと伝えるべきだ。  それでこそ、本当に思いも伝わるというものだろう。それに、おふくろがここまで想ってくれた今、俺が部屋にこもり続けている理由がどこにあるんだ。 「ありがとう、ありがとう、ありがとう……ありがとう」  部屋のなかで小声で、何度も反復練習を繰り返す。  外の世界は怖い。でも、家のなかくらいなら――。  今日は、今日の夕飯こそは『メシ』なんてカードを使わずに、勇気を出してキッチンの食卓で、母とテーブルを囲むんだ。  何を話していいかなんて、ぜんぜんわからない。  だけど、いっそ会話なんてなくたっていい。  ただ、懐かしいおふくろの顔を見たいんだ。その気持ちが俺のなかに満ち満ちている。  今、俺はひきこもり生活の瀬戸際で試されている。  ここで一歩踏み出せるか、このまま部屋にこもり続けるのか――。  だったら、俺は……! 「おふくろ、どうか怯えないで待っていてくれ。今、行くから」  出来るだけしわのよっていない服に着替え、何年ぶりかもわからない鏡をじっとのぞき込む。伸び放題だった眉をピンセットとハサミで整え、ひげも同じくハサミで短く刈って、ちょっとでも自分をまともな見た目にする。  そうして、冷たいドアノブに手をかけた。  しかし、その瞬間全身に震えが走った。 「この部屋から出る、キッチンへ行く。そこでおふくろにお礼を言うんだ。ありがとうと伝えるんだ」  どうしようもない緊張に、座り込みそうになる自分を叱咤する。  ――俺よ、このドアを押せ。  このドアを開けて、部屋の外に出る。第一歩を踏み出すんだ、行け! 「おふくろ……おふくろ!」  俺は母親を呼びながら、ずっと閉め切っていたドアを開いた。  廊下を抜けて、ゆっくりと階段を降っていく。この階段の下へいくのも、およそ十年ぶりか。震えそうな足を心のなかで叱咤しながら、俺は一階へたどり着いた。  突き当りを左にいけば、すぐにキッチンだ。  そこからは、ジュウジュウと肉を焼く音が聞こえてきている。  きっとおふくろが夕飯の支度をしているに違いない。  俺の姿を見て、驚くだろう。  部屋から出てきた俺に、おふくろは果たして微笑んでくれるだろうか。  不安に包まれながらも、俺は意を決してキッチンの扉を押し開いた。 「おふく……えっ!?」  久しぶりに見る我が家の台所。  そこには、見慣れたおふくろの後ろ姿はなく、代わりに異様な巨大な影がいた。  どこかから照らし出されているわけでもないのに、影が不自然に地面から伸びあがり、そしてそれが調理場にのっそりと立っている。  異常な光景だ。真っ黒で巨大な影が、換気扇に頭をぶつけそうになりながらガスコンロに向かいちまちまと調理をしていた。 「おやぁ、板山さん。ついにお部屋から出ていらっしゃったんですねぇ!」 「ひっ……!」  喜色を含んだ、飴玉を転がしたような声とともに巨大な影の背中がパックリと割れる。  その中心から、脇坂がぬるりと顔を出した。  突然の信じがたい光景に、俺はその場にしりもちをついてしまう。 「くふっ、嬉しいですわぁ。お夕飯を食べにいらしてくださったんですか? でも、もう少しだけ待っていてくださいね。じきに、夕飯が出来上がりますから。あ、今日も板山さんの大好きなハンバーグですから、楽しみにしてくださいね」 「なんなんだよ、お前……それに、料理が出来るって、どういう意味……」  フライパンからは、相変わらず肉を焼く音がしている。  キッチンの奥をのぞき込もうにも、巨大な影が覆いかぶさるようになっていてコンロの上を見ることが出来ない。  ――ハンバーグは、この化け物が作っていたのか?  そんなバカな、確かにあのデミグラスソースは、おふくろのものだ。  だが実際に今、目の前で恐ろしい化け物が料理……おそらくハンバーグ作りにいそしんでいる。
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