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「お前、脇坂、おい! このでっかい影はなんだ!? これ、お前の仕業か!?」
「あぁら、こんなもの、どうか気にしないでください。くふっ、くふふっ。あっ、でも、お食事のときにこんなに大きな身体でおそばにいたら、板山さん落ち着かないですよね」
脇坂が唇の両端を吊り上げるように笑うと、すぅっと影が地面のなかに消えた。
キッチンには、部屋の前で最初に見たときと同じような、華奢な女性の姿の脇坂が立っている。料理をしながらも、こちらを振り向いてはニヤニヤと気味の悪い笑みを浮かべていた。
「おい、今のはなんなんだよ、ふざけるなよ、くそ!」
うまく力が入らない足で、転げたまま後ろにずりさがる。
おふくろは、こんな化け物みたいな女にケースワーカーなんざ頼んだのか?
……そういえば、おふくろの姿がなかった。どういうことだ。
俺は震える歯を食いしばってうなり声をあげ気合いを入れると、立ち上がって脇坂に思い切りつかみかかった。
「おい! おふくろはどこだ!? 俺はおふくろに用があってここまで来たんだ!」
「あらぁ、お料理中にそんな乱暴されては困りますぅ。くふっ、焦げてしまいますわ。板山さんのだぁい好きな、ハンバーグが」
ハンバーグ、というセリフをねっとりと言い放つ脇坂に、こいつは何かを知っていると俺は確信した。
「お前の焼いているハンバーグなんてどうでもいい! おふくろはどこにいるんだって聞いてるんだよ!」
「えぇ、せっかく初めて『ありがとう』のカードがいただけて、わたくしとっても嬉しかったんですの。ですから、それからこうして、ずうっとハンバーグを焼いてお届けしていました。そうしたら、板山さんが今日お部屋から出て来てくれたんですもの。ケースワーカー冥利に尽きますわぁ。くふふっ、ああ嬉しい」
「無視すんじゃねぇ! おふくろはどうしたと聞いてるんだ! おふくろは!?」
俺の剣幕をものともせずに、脇坂はハンバーグを焼きながらニタッと笑った。
「あらやだ、板山さん。もう大人なのに、そんなにおかあさんが恋しいんですかぁ?」
「てっめぇ!」
沸騰しそうなほどに熱い血が、俺の頭にのぼって来るのがわかった。
どこまでもふざけやがって。こいつ、ぶんなぐってやろうか?
しかし金属バットを振り回したときの記憶がよみがえる。
俺が振り上げた手を下ろすべきか躊躇している間に、脇坂はくるんとフライパンのうえのハンバーグをひっくり返した。
肉の焼けるいいにおいが……ここ数日、ずっと嗅いでいた香りがした。
「これ、お前がずっとお前が作っていたのか、このハンバーグを……?」
「そうですよ。ありがとうのカードを頂いた最初のときからずうっと。私が作っていましたのよ。お気に召してくださったみたいで、とっても嬉しいですわ」
「おふくろは……いや、キリがない、ええい!」
こいつにどんなに問いただしても無駄だ。
俺は脇坂を放っておくことにして、廊下に向かい駆け出した。
その背中に低い、ねばりつくような声が響いた。
「てるてるぼうず」
振り返る。
脇坂が、嬉しそうに唇の端を吊り上げて笑っている。ニットの肩の切れ目に手を入れ、そこからなにか白い塊を取り出した。ひもで首をくくられた、てるてるぼうずだ。
「なにを、わけのわからないことをしてんだよ!」
「てるてるぼうず。そっくりだったので、作ってみましたの」
脇坂の指先で、ひもにくくられたてるてるぼうずがブラブラと揺れる。
不吉なものを感じて、俺は廊下に飛び出した。
そのまま、おふくろの部屋の前に向かう。
おふくろの部屋の入り口のドアの上枠には、脇坂がつくったであろうてるてるぼうずが吊るされていた。
「ちくしょう! あの女こんなところにまで」
ぶら下げられていたてるてるぼうずを引きはがして、放り投げた。
おふくろの部屋のドアを開けようとして、ドアノブの冷たさに腕が止まった。
――何かがおかしい。
ドアノブの冷たさも異常だが、部屋からこぼれ出てくる微かな空気が妙に冷たいのだ。
まるでおふくろの部屋だけ冷蔵庫になっちまったかのように、ひんやりとした空気がドアの隙間から漂ってくる。
思い切りエアコンでもつけているのか?
こんな時期にどうして?
いや、それにしたって――。
意を決してドアを開く。
冷たい空気の奔流が、俺の頬を打った。部屋のなかは真っ暗である。
俺はかつての記憶を頼りに、おふくろの部屋の電灯のスイッチを手で探り、押した。
「えっ……! おふくろ……ウソ、だろ?」
明かりがついた部屋の真ん中で、おふくろは天井から下げたひもで首を吊っていた。
ぼろぼろの白いエプロン。あれは俺がガキのころから使っていたものだ。それを着たおふくろが、部屋の中央でひもにぶら下がったまま浮いていた。
『てるてるぼうず』
脇坂が嬉しそうに言った言葉が、頭のなかによみがえる。
「おふくろぉ!」
俺は駆け出して、おふくろの身体を抱え上げるようにして持ち上げた。重く、どうしようもなく冷たい。それに、何かがべったりと俺の肌にくっついた。
「なんだよ、これ!? おい、おふくろ! 返事しろ、なぁ、おい! おふくろよぅ!」
「板山さんのお母様、てるてるぼうずにそっくりですよね。ふふっ」
いつの間にか、部屋の入り口に脇坂が立っている。
まるでステップを踏むようにゆっくりと部屋に入ってきた脇坂が、俺の顔を覗き込むようにして歌うように言った。
「大変だったんですよぉ、お母様。『私はもうダメ! もう首を吊るしかない、死ぬしかない!』と何度もおっしゃって」
「お前、おふくろからその話を聞いていて、それを止めなかったのか!? どうしておふくろが死にそうになっているってことを俺に相談しなかった!?」
怒りとともに脇坂に伸ばして手は、ひらりと泳ぐようにかわされた。
「あらぁ、だってぇ……板山さんは金属バットを振り回すばっかりで、ケースワーカーの私のお話なんて、まるで聞いてくれなかったじゃあないですかぁ。意地悪なんだからぁ」
「それは……それは認める! だけど、こんな大問題なら俺だってちゃんと聞いたさ!」
身を乗り出して叫ぶ俺に、脇坂はふぅっと息を吐いておふくろを指さした。
「それ、板山さんのお母様を蝋人形にしたんですよ。そうすると、死んでも腐敗もしないしにおいもしないので一安心なんです。急いで、においが出ないように内臓の奥の奥まで蝋で満たすのは、とっても大変でしたわぁ」
さっき触れたねばつくような感触の正体は、蝋だったのか。
『急いで』におわないようにって、こいつは……!
ケースワーカーと名乗りながら、依頼者であるおふくろが死ぬのを止めもしないで、さらにその死体をこんなふうに――。
どうしようもない激情に、俺の声は意図せず大きなものになる。
「てめぇ! ずっと一緒にいたくせに、おふくろが首を吊るのを黙って見てたのか!?」
「ええ、ずうっと見てました。だってお母様の決意はとっても固かったんですもの、もうお止めしてもムダだなぁ、と思ったし」
「説得とかしなかったのかよ、ケースワーカーなんだろ!? お前なら、おふくろの自殺を防げたろ……ああっ! こんな、自殺なんて、くそぉ!」
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