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テープを貼られた口からは、言葉にならないうめき声が漏れている。
「これが、新しい心臓だと!? どういうことだ?」
「おや、おわかりになりませんか? このひとの心臓が、あなたの新しい心臓になる、ということですよ。どうです、若くて活きの良さそうな人間でしょう?」
「それは、しかし……」
この男はどうなるのだ。
言いかけて、言葉に詰まった。
心臓を失って生きていられる人間など、いるわけがない。つまり脇坂は、今ここでこの男を殺そうというのだろうか。
「身長、体重は上田浩太郎さんとほぼ同じ。血液型も一致。おまけに彼はドナー登録をしておりドナーカードもここにあります。あとはほどよく締めて脳死状態にすれば、立派な臓器提供者の出来上がり、ということですよ」
「いや、しかし……。そんなことを、出来るわけが」
ううっ、うううっ、とうめく男に視線を向けると、私の声は無意識に震えていた。
「おや、いいのですか? 再びあの寝たきりの生活に戻っても。それに、思い出してください。あなたの心臓は今注射で活性化している状態だ。効果が切れれば前よりも悪化することでしょう」
「それはわかっているが、だが」
戸惑う私に、脇坂は一歩踏み寄ってきて言った。
「上田さん。あなたは選択したはずだ。あのまま病床に伏すことを拒み、自らの手で新たな心臓を手に入れると。そうでしょう?」
「だからといって、こんな犯罪行為が出来るわけないだろう!」
「ご安心を。そこはすべて私が上手に処理いたしますから。ですから、上田さん。あなたはなんの心配もなく、ただこの男の首を絞めるだけでいい。その手で脳の血流を止めて脳死状態に追い込んでくだされば、そのほかの面倒な手続きはすべてこちらで請け負います。じきに、病院にあなた宛てに新鮮な心臓が届きますよ。きっと、今よりずうっと元気になれるはずです。どうです、素敵でしょう?」
目の前の男を、自分自身で絞殺する。この男の脳を殺す。
そんなことが出来るだろうか。
無意識のうちに腕が、そして全身が震えた。
――自分が助かるには、もうこの道しかないのではないだろうか。
一向に現れないドナーを待ってベッドに縛り付けられている日々など、もうウンザリだ。
そうだ、やるしかないんだ。
この女、脇坂の言うとおりに。やるしかない。やるしか、ない。
私は、選択した。
その決断が、ゆっくりと私の身体を動かしていく。
一歩、椅子に縛り付けられた男に近づいた。
脇坂はその様を見て満足げに頷いた。
「やはり。あなたは私が見込んだ通りのひとです、上田さん。世の中にはこれが出来るひとと出来ないひとがいる。あなたはこちら側のひとだ、素晴らしい勇気だ。素晴らしい英断だ、最高ですよ。さあ、はじめましょうか」
嬉しそうに微笑んだ脇坂が、椅子の横から細いロープを取り出した。そのまま、椅子に縛られた男の首にネックレスのようにロープをかける。
縛られた男が目に涙を浮かべ、テープ越しに大きな声をあげた。
「うるさい、黙れ」
今まで穏やかだった脇坂の声色が一変し、氷のように冷たく、重い口調になった。
男の頭に当てられた脇坂の指先が、ぎしりと音を立てた。
ビクンビクンと数度痙攣した男が、荒い息をつきながら涙を流している。
「さて、上田さん。つかぬことをお聞きしますが、柔道のご経験はございますか?」
「いや、ない」
「そうですか、では説明しましょう。意図的に脳死を狙うというのは、柔道で言う締め技を決めたときの状態に非常によく似ています。呼吸をつかさどる喉など首の前部には一切傷をつけず、側面を締め上げるのです。首の側面には頸動脈などの血管が集中しており、長い時間締め付ければ血液の流れもとまり、やがて脳だけが死に至ります」
脇坂が拘束された男の首を指しながら説明を続ける。
私はこわばった表情のまま、脇坂の話を立ち尽くして聞いていた。
「手を交錯させるようにしてロープを握り、身体を沈めながら肘を前に突き出すようにして締め上げる。これで彼の呼吸を止めることなく血流だけを止めることが出来ます。つまり、脳死死体の完成です。実際やってみると少々コツがいりますが、なぁに、私が手取り足取り教えてさしあげますから」
魚でも絞めるような手軽さで笑う脇坂の様子に、背筋に冷たいものを感じた。
私は差し出されたロープを震える手でつかむ。
無機質なロープの感触が肌に触れる。このロープを、これからあの男の首に――。
拘束された男と目が合う。
怯えに満たされた瞳は、助けを乞うように何度もまたたかれた。
私はロープを、ゆっくりと男の首に巻き付けていった。
ギュア、と男がつぶされたカエルのような声をあげる。
「出来る、出来る……。私は出来る。やるんだ、それしかないんだ」
「そうです、上田さん。あなたには出来る。あなたはそれを選択できるひとだ。さあ、ゆっくりゆっくりロープを絞めていってください。いいですね、決して慌てず、手首を返すようにして、肘を前に突き出して、喉を絞めつけないように。首の両サイドの血管だけをゆっくり、確実に圧迫していくのです。なぁんにもあわてることはありませんからね……。ゆっくりと、しめあげるのです」
存分に喜色が含まれた脇坂の声に導かれるようにして、少しずつロープにかけた手に力を加えていった。
首の両脇を絞めあげるように圧力をかけていく。
拘束された男は一度大きくはねるように身体を動かした後、小刻みな痙攣を繰り返している。「ケッガッ! オグッ! ウエッ!」と言葉にならない声をあげる。
「はぁ、はぁ、はぁ、はぁ……」
私の粗い息遣いと男の喉奥から絞り出される声が、小さな居間のなかを泳いだ。
「えっ……あっ……かっ、がごっ……」
男の声は次第に小さなものになっていった。
絞め始めたころは紅潮していた男の顔からは徐々に血の気が失せ、蒼白な顔に変わっている。
男の目から再び涙が零れ落ちた。
思わず離してしまいそうな両手に力を込め、ロープをさらに男の首に食い込ませていく。
男の頭ががくりと傾き、私の右手に乗っかるようにしてうなだれた。
「ひっ!」
「ここで手を緩めては元も子もありませんよ、上田さん。がんばってください、何も心配はいりません。首の絞め方もとってもお上手ですよ。いやぁ、まるで初めてとは思えませんね。とっても見どころがあります。これなら大して時間はかからない。ほら、あとちょっとで『終わり』です」
頭をピクピクと動かす男を楽し気に見つめ、脇坂が絡みつくような声で私を激励した。
蒼白な男の頭は私の手の上で、糸の切れた操り人形のようにグラグラと揺れている。口元からはよだれも流れ出していた。
あまりの光景に折れてしまいそうになる心を必死に奮いたて、首に食い込んでいくロープの感触に耐える。
やがて脇坂が懐からペンライトを取り出し、閉じられた男の眼球を開き光を当てた。そして数度頷くと、力を込めたままの私の両腕にそっと白く冷たい手を置いた。
「お疲れ様です、上田さん。彼は今、無事に脳死いたしました。これより私は急いでしかるべき処置をして、彼の心臓を病院へ緊急搬送します。そうじゃないと、本当に死んでしまいますからねぇ」
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