ドナーの記憶

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 くふっ、と笑いをこぼした脇坂が黒い瞳を大きく見開いて言った。 「私はどうすればいい?」 「後のことはすべてこちらにお任せください。上田さんはさきほど来た道をまっすぐに戻って病院へお帰りください。そして病室までついたら、すぐにナースコールを押してください。間もなく心臓を活性化させていた薬の効果が切れるでしょう、せっかく上田さん自らが手に入れた『生きた心臓』がきちんと移植できるように、少しの間病院で安静にしていてください」  そういうと、脇坂が男の拘束を解き始めた。  作業に没頭する脇坂をしり目に、私は言われた通りに病院への帰路についた。  聞きたいことは、山ほどあった。  しかし、心臓の薬の効果が切れるといわれてしまえば病院に戻るよりほかないのだ。  両腕に残る、ロープで首を締め上げていく感触。  私はいったい何をしたのだ。なんということを、してしまったのだ。  どんなに頭から消し去ろうとしても、生々しい感覚が両手にまとわりつき、口元を封じられた男の涙がまぶたの裏に焼き付いている。  例えそれが脳死とはいえ、私はひと一人、自分の心臓のために絞め殺したのだ。  茫然自失したまま、フラフラと病室に戻りナースコールを押した。  不意に胸がどうしようもなく苦しくなり、呼吸が極端に浅くなった。必死に空気を取り込もうと喉をあえいでも、全身は徐々に冷たくなっていく。  薄れゆく視界のなかで、やってきた看護師が自分の名前を叫んでいる声を聴いた。  意識が戻ったのは、すっかり日が暮れてからのことであった。  時計を見る。病室に戻ってから半日ほどが過ぎていた。やはり、心臓にかなりの負担があったのだろう。胸に重苦しいものを感じる。。  それでも、幸い一命をとりとめたらしい。  医師と家族がそろって面会に来たのは、翌日の陽が傾き始めたころであった。 「上田さん、おめでとうございます。心臓移植のドナーが見つかりました」  満面の笑みで言う医師、ベッドのそばでは妻と子供たちが「あなた、おめでとう!」「お父さん、良かった!」としきりに繰り返し言っていた。  ――ああ、きっとあの男だ。あの男の心臓だ。  まだぼんやりと霧がかかったような思考のなかで、私は直感した。  それにしても、あの脇坂という女はいったい何者なのだろう。  今後の手術予定の説明を聞き流しながら、私はそんなことを考えていた。手術への不安感は、なぜかまったくわかない。あの女があそこまでして、すべてを整えたのだ。  あとはただ、移植が決行されるのを待てばいい。それだけ、手は汚した。  その負い目のような感情もまた、手術への不安を打ち消す材料となった。ここまでして、失敗するはずがない。そんな思いに包まれている。  そして私の心臓移植手術は翌日執行され、万事問題なく私は新しい心臓の移植を済ませたのであった。  真っ暗な空間が広がっている。  どこを見まわしても、あたりは暗闇につつまれていた。  おそらく自分は眠っているのだ。  きっと手術の麻酔が効いているのだろう、深い眠りに違いない。  大きな椅子に腰かけるようにして、まるで重力など存在しないかのような浮遊感に包まれたまま周囲を見回した。  何も見えないほどの深い闇。  これが全身麻酔で見ている夢だとしたら、いまごろあの男の心臓が自分のなかに移植されているのだろうか。  待ちに待ったドナー提供者、これから新しい日々が始まるのだ。  それでも、私の気持ちはこの周囲の闇のごとく晴れない。  新しい心臓を手にいれる。喜ばしいことのはずだ。  しかし、両腕にはあの男を絞め殺した感触が今もなお消えることなく残っている。  ふと、自分の腕をさすろうとして身体が動かせないことに気付いた。  四肢が椅子に縛り付けられている。  縄は頑丈で、どんなに身じろぎしても縛られた手足が自由になることはなかった。 「おい、誰かいないのか!? なんだこれは!」  叫んでみても自分の声がむなしく反響するだけである。  不意に、闇の奥から二本の腕が伸びてきた。その手にはロープが握られている。  そっと、ネックレスでもかけるように、ゆっくりと私の首にロープが回された。 「お、おい! まさか、そんな……お前は……」  ロープを握った腕が、少しずつ締め上げられていく。 「かっ……、げほっ! ごぼっ、やめ……ひっ!?」  なんの抵抗も出来ないまま首を締め付けられる私が見たものは、ロープを握って目を血走らせたあの男の顔だった。 「なんで……!? そんな、バカな、あぐっ……」  ゆっくり……。  ゆっくりとロープが首に食い込んでいく。  頭の血がカッと熱くなったかと思えば、すぅっと血の気が失せて冷たくなっていった。  口から無意識のうちによだれが流れ出す。  次第に、声すらあげられなくなっていく。  あらゆる感覚が消え失せていくなかで、どうしようもなく重たくなった頭をがくりと垂らした。私の顎先に触れる冷たい腕の感触だけが、妙にリアルに感じられたのであった。 「はっ!?」  私が目を覚ましたのは、手術を終えた数時間後のことであった。  まだ人工呼吸器も外せない状態であったが、周囲に医師などの姿はない。点滴をされ、奥には看護師がのんびりと動いている様子が見て取れた。 「夢、か……」  ――無事手術は成功したようだな。  医師も不在、看護師も落ち着いたそぶりで仕事をこなしている。  その光景を見て、ほっと胸をなでおろした。緊迫した状態にはないということだ。  それにしてもさっきの夢はなんだったのか。  まるで心臓を手に入れるために私がやったことを、夢の中であの男が繰り返しているようであった。信じがたいことではあるが、それは心臓を奪われたあの男が、憎い私に復讐をしているかのように思えた。  首を締め上げられた感触を思い出しぶるりと震えると、脈拍を示す機械がピーと音を鳴らした。  看護師がゆっくりとこちらにやってくる。 「あら、上田さんお目覚めですか。身体の調子はいかがですか? 痛むところはありますか? 移植手術は無事成功いたしましたから、安心してくださいね」  穏やかな声で問われ、私はかすかに首を左右に振った。  さっき見た夢のことが気になったが、とても話せる状況ではない。いや、あんなことは今生誰かに語れるようなことではなかった。  自分の心臓を手に入れるために、自分自身の手でひとを殺したなどと――。  あれは、墓までもっていく話というものだ。 「術後の経過も順調ですが上田さんはまだお疲れのようですから、少し眠くなるお薬入れますねー」  わずかに、看護師が「静脈麻酔薬を……」とつぶやいた声が遠のいていき、私の意識は再び人工的な眠りに落ちていった。  真っ暗な空間が広がっている。  私の四肢は椅子に縛り付けられていた。  さっき見た夢とまるで同じ光景だ。  耳を澄ますと、カツ、カツ……と靴音がゆっくりと近づいてきた。ようやく顔が確認できる距離までやってきたその男の手には一本のロープ。  それを手にしているのは、私自身が脳死に至らしめたあの男である。 「そんなバカな……」  男が私の首にロープをかけ、締め上げる。
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