ドナーの記憶

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「そんなバカな! 心臓なんてただ血液を送り出すポンプに過ぎないだろう。移植のせいで食べ物の好みが変わるとか、性格が変わるなどあるわけが――」 「そしてもうひとつ、これが一番重要なんですけどねぇ」  怒鳴る私をさえぎり、脇坂が一際大きな声で言った。 「クレア・シルヴィアは夢の中で臓器を提供してくれた少年と会っているんです」 「夢の中で、臓器を提供した人間と会っている?」  新しい心臓が、バクンと跳ね上がった。  その鼓動が自分のものなのかどうか、私には判別することが出来なかった。 「そう、クレア・シルヴィアは夢のなかに出てきた少年のファーストネームを知っていたのです。そして実際にその家族との対面を果たし、彼が臓器提供者であることを確認している。どうでしょう? 臓器に記憶が宿ると言われる、非常に稀な一例ではありますが……。もしも心臓にも記憶が宿るとしたら、あの男は上田さんにどんな夢を見せるでしょうかねぇ?」  ハッとして口を開いた。  繰り返し見る、首を絞められる臨場感あふれる悪夢。  あの悪夢がもしも、この心臓が見せているものだとしたら――。 「ゆっくりゆっくり、時間をかけて絞め殺しましたもんねぇ。少しずつ血液の流れを断って、脳死にいたらせたのですものねぇ。さぞ恐ろしかったことでしょう、さぞ苦しかったことでしょう。……さぞや、首を絞めていた相手を憎んだことでしょうねぇ」  嬉しくて堪らない、と言った声で脇坂が笑いをかみ殺して言った。  全身から血の気が引いていく感覚。  おそらくあの男は、知っているのだ。  今、自分の心臓がどこにあるのかを。 「ぐ、ぐげ、ぐげげげげげげ!」  カエルが潰されるような声で、脇坂がとつぜん笑い始めた。  銀髪も白い肌も消え失せた脇坂はもはや一体の黒い影となり、床を、壁を、天井を駆け回った。 「心臓は知っている、心臓は知っている! 今、自分が生前自分を苦しめて殺した男のなかにいることを! そして決して心臓は忘れない、許さない、自分の心臓を理不尽に奪い取った男のことを! このままでは済まさない!」  影からぬるりと伸びた手が、呆然としている私のほほに触れた。 「心臓は復讐する! 何度でも何度でも。苦しかった記憶も、恐怖も、痛みもすべて覚えている。だからあなたをその地獄に引きずり込む。何回も何回も。あなたが生き続ける限り、永遠に!」 「ありえない、そんな。あれはただの悪夢だ。単なる偶然だ、そんなことがあるわけない。あんただってどうかしている、おかしい! これこそ夢だ、そうに違いない。これは全部病気が見せた悪い夢だ!」  天井に現れた影から、脇坂の上半身がするりと伸びてくる。  真正面から私をのぞき込むようにして、光を映し出すことのない暗い瞳が見開かれた。 「コレは現実ですよ、上田さん。賢明なあなたはもうわかっているハズだ。そうでしょう。その証拠にあなたは眠ることを恐れた。夢の中で何回も苦しめられたんでしょう、いたぶられたのでしょう。新しい心臓はきっと長い間活躍してくれますよ。だってあんなにひどい殺され方をしたのだから。すぐにあなたを殺すなんてことはしないでしょう。ジワジワ、ジワジワとあなたを蝕んでいく。そうしていつかあなたの精神が正気を失うまで、その心臓はずぅっと一緒だ」 「お前はいったい何者なんだ!?」  すとんと、影が床に落ちた。  地面から、顔だけを覗かせた脇坂がニヤリと微笑んだ。 「さようなら、上田さん。どうか、長生きしてくださいね」  そう言って、脇坂はベッドの影の奥へと消えた。  病室に取り残された私は愕然としたままずっと時計を見つめていた。  夕日は落ち、夕食の時間が終わり――。  もうすぐ、消灯の時間がやってこようとしていた。  今夜は眠るまい、そう思っても次第にまぶたが重たくなっていった。  大手術のあとで、身体が睡眠を要求しているかのように気怠くなっていく。  眠ってはダメだ。  そう思えば思うほど眠気が増し、意識が遠くなっていく。  一瞬、意識が途切れた。  次に気が付いたとき、私は頑丈な椅子に四肢を縛り付けられていた。  ああ、今夜もあの夢が始まるのか。  近づいてくる足音に、私は大きな絶望に飲み込まれていった。
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