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「どこまでも舐めやがって……こいつを顔面に食らいたくなければ、その食事を持って下に戻れ。料理はうちのクソババアに届けさせろ。なにがケースワーカーだ! お前は不快だ、どっかへ消えろ! ぶっ殺されてぇか!?」
「いえいえ、わたくしケースワーカーとしてお母様に板山さんのことをお願いされましたので。さあ、お食事を受け取ってください」
「俺の話聞いてるのか、このクソアマが!」
脇坂の顎先に向けた金属バットを思い切り突き出す。
脇坂はそれを最小限の首の動きで避けると、じっと俺の目のなかを見据えるように大きく目を開いた。黒くて大きな瞳と光彩が収縮し、まるで猛禽類が獲物を見るような鋭い目つきに変貌した。
口元の微笑みは、消えていない。
「板山さん、お食事ですよ。さあ、受け取ってください」
「うっ……」
さっきよりもゆっくりと耳から脳に染みこむような声色で呟き、脇坂が俺にお盆を差し出した。
その様に、背筋が冷える。脇坂は、街中で見かければ振り返って二度見しちまいそうなイイ女である。
しかし、いやだからこそ、微笑みを絶やさない口元とあの目に不気味なものを感じた。
さらに一歩、脇坂が俺の前に来る。
もう少しで、大切な俺の部屋に入り込まれてしまう。
しかし、こいつにはバットも怒鳴り声もまるで通じない――。
悔しいが、いったんこいつに対処する方法を考え直すしかなかった。
俺は片手をバットから離すと、差し出されたお盆を受け取った。そして、さっさと部屋に退散し乱暴にドアを閉めた。
部屋の外から足音は聞こえない。まだ脇坂とかいう女は部屋の前にいるらしかった。
「クソッ! しつこいぞ! なんだってんだ!?」
「お盆のうえは、見ていただけましたかぁ?」
間延びした人を小ばかにするような声で、ドアの向こう側で脇坂が言った。
「盆のうえ?」
脇坂に渡された盆には、いつも通りのババアの食事が置いてあるだけ……のように思えたが長方形のお盆の片隅に、トランプのようなカードがあった。
地面に座り込んでバットを放り出し、俺はカードに手を伸ばす。
カードは四枚あった。
そのうちの三枚には『食事』と書かれており、もう一枚には『ありがとう』と記されていた。
そしてまるでおまけのように、脇坂未明とだけ書かれたシンプルな名刺までカードの一番後ろに添えてあった。
「ああっ!? なんだこれは!」
「やだもう、そんなに怒鳴らないでください板山さん。それはですねぇ、ふふっ、今まではほら、板山さん、お食事は欲しい時はお母様に向かってとっても元気に床を踏み鳴らしていらっしゃったでしょう?」
挑発するような物言いに、俺は返事の代わりに壁を蹴りつけた。
「今度から、ドアの隙間からその『食事』と書かれたカードを差し出してください。それを差し出して頂ければ、私がいつでもお食事をお持ちいたしますわ」
「ちっ、めんどくせぇ。床を踏み鳴らしたほうが早いだろうが」
「ですが、いつかは床は壊れてしまうかもしれません。いいんですか? 床に穴があいちゃっても。放っておいたら下から丸見え、床の修理をするならあなたの部屋に業者の人間が何人も入り込むんですよ。引きこもりだなんて言っていられなくなりますよ」
「それは……」
考えたこともなかったが、確かにこの家はそうとうぼろい。
俺が生まれたころから建っていたのだから、最短でも築三十年。
毎日のように床を思い切り踏み鳴らしていたが、言われてみればそういうことが起きないとも限らない。デスクの前に戻り、いつも叩いている床に足を乗せる。
かすかに、ギシリといやな音が鳴った。
「マジかよ、くそ!」
俺は舌打ちをすると、ドアの向こうにむけて怒鳴り声をあげた。
「わかったよ! 今度からてめぇの言う通りこいつを差し込んどいてやる。だがな、ちょっとでもメシの時間に遅れてみろ! ただじゃおかねぇからな!」
「わかっていただけて嬉しいです。くふっ、それで、ですねぇ」
空気が漏れるような笑い声をあげた脇坂が、つぅっと俺の部屋のドアをなぞったような音がした。
「もしも板山さんがお母様に『今までありがとう』という思いを伝えたくなって、でも直接言うのは恥ずかしい……なんてことになりましたら、その『ありがとう』のカードをお盆を戻す際に乗せておいてくださいませ」
「なんだとぉ、俺がババアへ礼を言えって指図してるのか!?」
「くふっ、くふっ。最初はほら、照れ臭いものじゃあないですか。だから、直接言うのは恥ずかしいかなぁって。そんなとき、そのカードをお使いください。あなたの感謝の気持ちが、きっとお母さまにも届きますわ」
確かに俺は食事を終えたお盆と食器は適当に部屋の前に置いておく。そうするとクソババアがいつの間にか回収していくからだ。脇坂が食事を回収しに来るならば、おふくろよりはるかに静かにそれをやってのけるだろう。
しかし、食事の盆に『ありがとう』と書かれたカードを入れろだと?
このアマは、どこまで俺を舐めてやがるんだ。
「ボケたこと言うのも大概にしろ、脇坂っつったかこのクソ女ぁ! てめぇはケースワーカーだかなんだか知らねぇが、せいぜいババアの手伝いをしてりゃあいいんだよ! 俺に干渉すんな!」
「あらぁ、名前、憶えてくださったんですねぇ。嬉しいですわ」
「あのなぁ。そういうことじゃねぇ、いいか……」
「それでは、これからよろしくお願いいたしますね、板山さん」
キィ、と一度気障りな音でドアを鳴らして、女の足音が遠ざかっていた。
俺は「ちくしょう!」と声をあげて床に座り、食事に手を伸ばす。
うまくもないメシを咀嚼している間、俺は新しく現れたあの得体のしれない女のことを考えていた。
容姿だけ言えば、とんでもない上玉だ。俺好みの見た目をしている。
あんなイイ女が俺の身の回りの世話をするっていうんなら、まるで漫画の世界の話のようである。
美女を侍らせての悠々自適な引きこもり生活も悪くない、という気もどこかにある。
しかし、あのケースワーカーとか言った女はどうにも得体が知れない。
俺が喉元にバットを突きつけたときの、あの鋭い目。
人を小ばかにしたような口調のなかに交じる、頭のなかに染みこんでくるような不思議な言葉と声色。
それに、振り回したバットをひらりとかわす身のこなしもただのケースワーカーの若い女と考えれば異様である。
「どうしたもんか……」
俺がこの部屋に引きこもっている以上、あいつはクソババアに雇われたケースワーカーとしてここに通ってくるのであろう。
しかし、あいつを力づくで脅して追い出そうと部屋を出れば、引きこもり支援という名目で現れたあいつの思い通りになってしまうのではないか?
「ははぁ、そういうことか」
あの挑発的な態度や言動も、つまりは俺を部屋から誘い出すための罠のようなもんだ。
それならこっちはこっちで、イイ女に俺の身の回りの世話をさせるという楽しみだけを味わえばいい。だが、本当にそれだけなのだろうか?
いまひとつ納得しきれない胸のうちを押し流すように、茶碗の白米を口のなかにかきこんで俺はひとつ大きなゲップをした。
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