君と夢みる約束の空

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★ み空行く 月の光にただ一目(ひとめ) 相見(あいみ)し人の (いめ)にし見ゆる (美しい空を行く月の光に、ただ一度お逢いした方が夢に見えます)  廃ビルの屋上から見える夜空は暗い曇天で、星の光なんて見えなかった。非常階段を登った先にある場所。僕はいつものように、空にむかってスマートフォンをかざした。  きっとこれが、最後の空になる。だからできるだけ綺麗に撮りたかった。 液晶に表示された日付を見る。七月七日、といえば七夕だ。そのことを今になって思いだした。ぬるい風が頬をなぶってゆく。星空が撮れたら素敵だっただろうな、なんてやけに遠い気持ちで僕は思う。仕方なく、雲間にまぎれていきそうな、半分欠けた月を画面に閉じ込めた。  柵を乗りこえる。死ねる高さだといいな、と頭の片隅で思う。いつも、泥みたいな空虚さが胸の内側にあった。それは徐々に僕を呑みこんで、自分が何の意味もない、ただ呼吸するだけの物体と化す錯覚におそわれた。その始まりがいつだったか、今でも思いだせる。僕が《僕》を永遠に失ったあの瞬間のことを。僕をかなしげに見返した彼女の眼差しも。  ――もう、たくさんだ。  高校生で、まだこの先何年も続くはずの命を手放そうとするなんて。そうしてもかまわないと決意した時点で、僕はたぶんどうしようもなく弱い部類の人間なのだろう。そんな風に思って苦笑する。死のうとする直前すら人は笑うことができるんだな、と妙に冷静に自己分析しながら。住宅街の明かりが眼下に広がっている。明滅する鉄塔の先端とネオン。何度も色を変えていく信号機。強く瞬くものは地上にしかなくて、その光に気おされ雲に邪魔されて、夜空の星が見えないのがやはり残念だった。  僕は柵にもたれかかったまま片手でスマートフォンを操作して、先ほど撮った写真をSNSにアップロードした。名前も知らない人々と共有する空。群青の雲に呑まれてゆく半月。     その画を確認して、それでもう終わらせようとした。  足を空へ踏みだそうとする。  瞬間、通知が来た。通知音を切っていなかったのだ。  ポロン、と軽い音にのって書かれたメッセージは、夜の闇に光源となって届いた。 『綺麗な月ですね』 『よければ、私と繋がってくれませんか』 『あなたの空を、もっと見てみたいです』  思わず、足をとめて僕はその画面を眺めていた。僕のフォロワー数は、決して多くない。なんでもない空を、ただ撮って載せているだけだ。それなのに、どうやって見つけたのだろう。こんなメッセージが来るのも初めてだった。僕は無名のまま、誰かと言葉を交わしたことすらなかった。  べつに無視すればいいさ、とどこかで誰かが言った。この子は僕のことを知らないし、例えばこの瞬間に、僕が世界から消えてもかまわないだろう。SNSというのはそういうものだ。反応しあう者たちだけが、上辺の紐帯で緩く繋がっている。そうじゃない者は自然と淘汰され、排斥されていくのだ。いつか忘れてしまうときが来るなら、最初から知らない方がきっと幸福だ。少なくとも僕はそう思っていた。そう思っていないと、バラバラに壊れていってしまいそうだった。  どれくらいの時が流れただろう。  僕はなぜか、そのメッセージから目を逸らせなかった。目前に広がる闇は、さっきまで僕を包み込もうとしていたのに、今はもう、そう思えなかった。星空が撮れたらよかったのに。もう一度そう思った。気づいたら右手が、文字を打っていた。 『僕でよければ、また見てください』  どうしてそんな言葉を送ったんだろう。律儀に返事が、その後表示された。 『ありがとうございます。楽しみにしています』  そんな何気ないやりとり。僕はしばらく、動くことができなかった。  それが、その夜が、《星林(ほしばやし)みゆ》と僕との始まりだった。
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