君と夢みる約束の空

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 中学三年のある日。僕は怪我をして、記憶を失った。学校の階段を踏み外して落下したらしい。どんな風に落ちたか覚えていないのに、反転する灰色の天井と、窓枠に区切られた空はなんとなく思いだせる。それが最後の光景。  気づいたら僕は病院のベッドにいて、色んなチューブで体を繋がれていた。意識は虚ろだった。何だっけ。何かの物語に、人生はベッドの上で突然始まる、みたいな言葉があったけど、僕の場合、まさしくそれだった。病院から見えた空は快晴で、嘘みたいにまぶしく光っていて、僕は自分自身がその青空にかすんでいきそうな気がした。僕の存在自体がすでにあやふやで、とらえどころもなく霧散していきそうな頼りなさ。今までの自分は閉ざされた扉の向こう側にいて、僕は扉を開くすべをもたなかった。  お見舞いには、たくさんの人が来た。  担任の女の先生(優しそうで、悪く言えば気弱で、涙ぐんだ目を隠そうとしなかった)は、 「透真(とうま)くん、早くよくなってね」と言った。  次に両親が来た。母親(たぶん彼女が母親なんだろう。50代くらいの女の人だった)は、大泣きしたのか目が腫れていて、父親は何も言わずに僕の肩をたたいた。  クラスメイトが数人。名前をひとりも思いだせなくて、何を言われても僕は曖昧にうなずいて、かすかに笑うことしかできなかった。医師は、頭を強く打った後遺症で記憶が混乱しているのでしょう、と言った。両親にも、大体似たような説明をしているらしかった。  僕は何も答えられなかった。何を言われても、何を聞かれても。どんなものが好きだったのかさえ。今まで生きてきた《僕》は、すでに手の届かない彼方にいて、今ここにいる僕とは別人だった。過去の僕のどんなことを知っても、まるで他人の話を聞いているようだった。それならば、ここにいる僕はいったい誰なんだろう。  僕はどうしようもなく空っぽで、虚ろだった。その空虚さは、徐々に僕を端から呑み込もうとしていた。ごめんな、と同級生のひとりに謝られたけれど、その謝罪の意味もよく分からなかった。  そして最後に――彼女が現れた。短いショートカットの黒髪にセーラー服。泣きたいのに、それを懸命にこらえているような、そんな表情だった。彼女は僕を見た。責めている眼差しだった。僕が永遠になくしてしまった《僕》を、置き去りにしてもう届かない自分を、取り戻せないと知っている顔だった。最愛の人を閉じ込めた僕を恨んでいるような。  彼女の双眸が、僕の体を射抜く。  僕は、目を逸らすことができなかった。  形の良い唇がわずかに開かれて、彼女は、誰も言わなかった言葉を口にした。 「本当に、覚えてないの?」
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